ローマ人の物語 ハンニバル戦記【中】4 (新潮文庫) | 本とサーカス
ローマ人の物語 ハンニバル戦記【中】4
著者 塩野七生
出版社 新潮社
発売日 2002年
紀元前219年、カルタゴ支配下のスペイン総督となったハンニバル・バルカ(当時28歳)はスペイン東岸にあるサグントという港町を攻撃する。その目的は、ローマの同盟国であったサグントを陥落することによってローマからの「宣戦布告」を誘発することであった。当然、攻撃を受けたサグントは同盟国ローマに救援を要請する。
おそらく、当時の元老院会議ではこんな話し合いがなされたのではないだろうか。
「元老院諸君! サグントがカルタゴ軍に襲撃され、救援要請を受けたことは知っていると思う! 本日は、これを受けるか否か話し合———」
「拒否しましょう!」元老院の1人が叫んだ。
「拒否? はて、なぜだね?」
「今我々はカルタゴと戦争している場合じゃないだろ! 北のガリア人はどうする! 我々がスペインに気を取られているうちにあの長髪どもがポー河を越えて南下してくるぞ! 〜年のケルト人襲来を忘れたわけではあるまい!」
「そうだそうだ!」
すると、サグントからの使節が泣きそうな声で言った。
「わ、我々は同盟関係にあるのですぞ! ろろろローマは同盟国を見捨てるんですか!」
「静粛に! たしかに、今カルタゴと再び戦うのはリスクが高い。では、我々から2人サグントに送り、どうにか外交で解決しましょう」
というわけで、その後2回に渡ってサグントに使節を送るも、カルタゴ政府は「いやだってさ、あいつら(サグント)から攻撃してきたんだけど?」と口をすぼめて言を濁し、侵攻を止めなかった。
侵攻から8ヶ月後、サグントは陥落。
その知らせを受けたローマはカルタゴとの再戦を決意し、こうして第2次ポエニ戦争の火蓋が切って落とされた。
さて、本書はハンニバル・バルカを軸にして第2次ポエニ戦争が描かれる(タイトルが『ハンニバル戦記』なのだから当たり前だが)。
では、このハンニバルという男の凄さはどこにあるのだろうか。
約10万の兵と37頭の象さんを牽引し、ピレネー山脈、そしてアルプス山脈という峻岳を越えてイタリア半島に侵攻するという、緻密に計算されたその“戦略眼”か。それとも、総力をかけて挑んでくるローマ軍をいとも容易く包囲して全滅させる“戦術眼”か。
著者塩野七生氏は本書の中で、ハンニバルの凄さをこう語っている。
拠点であったスペインからイタリア本国侵攻までの戦略は、当然頭の中でイメージしただけで実行に移すことなど不可能である。行軍ルートの地形など地理に関する情報はもちろん、ピレネー山脈以降の現地部族(ガリア人)の性向からローマの執政官個人の性格についてまで、多くの斥候(偵察)を使って情報を吸い上げ、徹底的に調査した。第2次ポエニ戦争は、ハンニバルの情報収集を元にした冷徹な計算があった上で実行された戦争であったのだ。
そして、この情報収集力の重要性は、それから200年後のユリウス・カエサルが再び証明することになる。
それにしても、第2次ポエニ戦争に登場するキャラクターたちは皆、映画化すれば主役級の武将たちばかりだ。
ローマを恐怖のどん底に突き落とした古代最高の戦術家ハンニバル・バルカはもちろん、ハンニバルの戦術を模倣したローマの英雄スキピオ・アフリカヌス。勝つことより負けないことを選択し、持久戦法を駆使した「ぐず男」改め「イタリアの盾」こと独裁官ファビウス・マクシムス。積極戦法でハンニバルを苦しめた「イタリアの剣」ことクラウディウス・マルケルス。そのマルケルスの戦闘意欲を削ぎ落とした天才数学者アルキメデス———。
当然、題材にできるエピソードも、<ハンニバルのアルプス越え>、<トラジメーノ湖畔の戦い>、ローマ軍6万が皆殺しにされた<カンネの戦い>、そして、スキピオが復讐を果たした<ザマの戦い>などなど、挙げればキリがないほどある。
本書は全261ページと他の巻に比べて長いにもかかわらず、上記のようなエンタメ性に富んだストーリーに溢れていることと、著者の才筆により、まるで1つの映画を観ているかのようでそれを全く感じさせない。読み始めたあはなたは、気づけば古代ローマにトリップしているだろう。
主な内容
【本書で描かれている年代】
紀元前219年〜紀元前206年
【主な出来事】
紀元前219年 ハンニバル、サグントを攻撃。
紀元前218年 ハンニバル、本拠地カルタヘーナを出発。アルプス越えに挑む。
紀元前217年 トラジメーノ湖畔の戦い。対峙したローマ軍がほぼ全滅する。
紀元前216年 カンネの戦い。ローマ軍死者7万人。
紀元前215年 カルタゴ、シラクサとマケドニアと同盟を結ぶ。
紀元前212年 ローマがシラクサを陥落し、ローマの属州にする。
紀元前209年 スキピオがカルタヘーナを攻略する。
【主な登場人物】
ハンニバル・バルカ
ハミルカル・バルカの長男。カルタゴの将軍で、古代最高の戦術家。
スキピオ・アフリカヌス
コルネリウス・スキピオの息子。ティチアーノの戦い、カンネの戦いを共に経験し、ハンニバルの戦術を研究。異例の抜擢を受け、軍団長としてスペインに飛ぶ。
シレヌス
ハンニバルのギリシア語の教師であり、ポエニ戦争の記録者としてイタリア遠征に同行した。ハンニバルの行動がわかるのは彼のおかげ。
ファビウス・ピクトル
ローマ側の記録者。元老院議員。
ハシュドゥルバル
ハンニバルの次弟。ハンニバルがイタリアに遠征している間、スペインの防衛を託される。
マゴーネ
ハンニバルの末弟。ハンニバルに同行。
プブリウス・コルネリウス・スキピオ
スキピオ・アフリカヌスの父。第2次ポエニ戦争開戦当時の執政官。
ティベリウス・センプローニウス・ロングス
同じく第2次ポエニ戦争開戦当時の執政官。平民出身。
ガイウス・フラミニウス
第2次ポエニ戦争2年目の執政官。平民出身。トラジメーノ湖畔の戦いで戦死。紀元前220年に<フラミニア街道>を敷設した人物でもある。
ファビウス・マクシムス
紀元前217年のトラジメーノ湖畔での惨敗を受け、独裁官に就任。勝つことよりも負けないことを目的とした「持久戦略」をとったがゆえに「くず男」の渾名がつけられるなど、当初はローマ市民たちの反感を買った。が、後に「イタリアの盾」とゆわれるまでにローマ市民の信頼を取り戻す。
エミリウス・パウルス
スキピオ・アフリカヌスの妻エミリア・パウラの父。第2次ポエニ戦争3年目(紀元前216年)の執政官の執政官。<カンネの戦い>で戦死。
テレンティウス・ヴァッロ
第2次ポエニ戦争3年目(紀元前216年)の執政官の執政官。平民出身。
<カンネの戦い>の戦犯。
マルクス・クラウディウス・マルケルス
第2次ポエニ戦争5年目(紀元前214年)の執政官。平民出身。対ハンニバルに対する積極戦法で、「イタリアの剣」と呼ばれた。
ティベリウス・センプローニウス・グラックス
第2次ポエニ戦争5年目(紀元前213年)の執政官。平民出身。
ヴァレリウス・レヴィヌス
外交能力に優れ、マケドニア対策を一任される。
アルキメデス
シラクサの天才数学者。彼が考案した数々の兵器により、マルケルス率いるローマ軍は苦戦する。
マシニッサ
ヌミディアの王子。
クラウディウス・ネロ
第2次ポエニ戦争11年目(紀元前207年)の執政官。メタウロの会戦でハシュドゥルバルに勝利。この戦闘がハンニバルを孤立に追い込んだ。
引用
同盟国を見捨てることくらい、当時のローマ人の意に反する行為はなかったのである。(p.19)
同時代人に比べて彼(ハンニバル)が断じて優れていたのは、情報の重要性に着目したことであった。(p.23)
このハンニバルの「アルプス越え」は、冒険ではあっても、冷徹な計算のうえに立って実行された冒険であった。(p.23)
山越えの行軍は、ガリア人を驚かせて彼らの敵対行為を押える目的で、象群を先頭に立ててはじまった。(p.37)
味方に犠牲が出るたびに真先に駆けつけるのは、総司令官であるハンニバルだったのである。(p.38)
優れた武将は、主戦力をいかに有効に使うかで、戦闘の結果が決まることを知っている。その主戦力を有効に使うには、非主戦力の存在が不可欠であることも知っている。(p.48)
情報収集に熱心なハンニバルは、センプローニウスの心理まで把握していたようである。彼ならば、挑発に乗るであろう、と。(p.62)
包囲戦法は、敵の主戦力を非戦力化することに意味をもつ。そして、それゆえに戦術の基本でもあった。(p.65)
責任の追求とは、客観的で誰をも納得させうる基準を、なかなかもてないものだからだ。それでローマ人は、敗北の責任は誰に対しても問わない、と決めたのであった。(p.73)
その全歴史を鳥瞰しても、ローマがこれほどの敗北を喫したのは、このカンネの会戦が、最初にして最後になるのである。(p.115)
天才とは、その人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気づかなかった旧事実に、気づく人のことである。(p.127)
いかに巧妙に考案された戦略戦術でも、それを実施する人間の性格に合っていなければ成功には結びつかない。人はみな、自分自身の肌合いに最も自然であることを、最も巧みにやれるのである。(p.130)
人間、これまではずっと有効であったことを変革するくらい、困難なことはない。(p.131)
快適な生活は、兵士たちの戦意の喪失につながる怖れもある。(p.155)
「多くのことは、それ自体では不可能に見える。だが、視点を変えるだけで、可能事になりうる」(p.164)
1人の頭脳の力が4個軍団にも匹敵する場合があることを、ローマ人は体験させられることになった。(p.173)
「あらゆる彼(スキピオ・アフリカヌス)の行為は、完璧な論理的帰結をもっていた」(p.220)