ヘンリー・フォードの社会的偉業
ヘンリー・フォード(Henry Ford 1863年~1947年)-(概略)
アメリカ合衆国・デトロイトの近郊でアイルランド系の移民農家の子として生まれる。
フォード・モーター創業者であり、Tモデルのフォードは、大量生産のラインに乗り、1,500万台以上生産され、グローバルな産業形態と交通手段、そして、経済にも変革をもたらした。
ただ、もっとも、注目すべきことは、人種の差別なく、女性や障害のある方も、ヘンリーに雇用されたと言うことだろう。
16才で見習い機械工として働き、19才で実家の農場で働き、28才(1891年)の時、エジソンの照明の技術者となる。1896年に自ら、内燃機関での4輪自動車の製作をおこなった。
トーマス・エジソンの後押しもあって、35才(1898年)の時デトロイトに自動車会社を設立した。
ただ、当時のガソリンとそのエンジンの個体別の生産方式では、性能にもバラツキもあり、1901年には解散せざるを得なかった。
1903年視点を変えて、新たにフォード・モーター・カンパニーを設立した。そして、T型フォード(1908年)を価格を押さえただけではなく、シンプルな構造(機械工学の原点)と、それによるメンテナンス性により爆発的に販売量が伸びた。それには、大幅な広告と北米の多くの都市部に販売店(メンテナンス)を展開したからだろう。1913年、ライン生産により量産化を行った結果、品質管理(故障の少ない)、そして、工業デザイン(含:設計)の原点ともなって行く。この方式(考え方)は、グローバルに20thのスタンダードな量産システムとなる。1918年には、アメリカ合衆国での半数以上は、このフォードTモデルとなる。しかし、そのヘンリー・フォードの手法は、多くの苦境に立たされ、常に順調に進行した訳ではない。
ただ、今でも、合衆国では故障の少ない日本車(乗用車のエリア)の優位性はあるものの、全体では、Ford F150(ピックアップトラック/1948-)系は、車社会ユナイテッドの各地で、お父さんたちの足としてスタンダードな位置付けだ。
また、T型フォードは、日本では、当時(1923年)、円太郎バス(東京市営バス)の名前で取り入れられている。
それは、フォードの協力もあり、関東大震災の後、わずか4ヶ月後のことである。
そのヘンリー・フォードは多くの格言を残している。
Don’t find fault, find a remedy; anybody can complain.
粗探しをするより改善策を見つけよ;不平不満など誰でも言える。
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