美貌な彫刻家カミーユ・クローデルの栄誉とロダンの非情な愛
カミーユ・クローデル(カミーユ・クロデル/Camille Claudel、1864 - 1943/フランス-彫刻家)
誰が、どう、その人生を語ろうとも、カミーユ・クローデルは、天才だ。
(cc)Camille Claudel
略歴- Camille Claudel
1864年、エーヌ(le département de l'Aisne)に生まれる。
カミーユは、幼少の期から彫刻に親しみ、そして、その技術と才能を発揮していく。
また、カミーユは、精彩な美貌の持ち主だ、そして、その手で作られた彫刻も実に美形だ。
1881年、父を残して一家はパリに移住した。女子枠のある芸術教育を受けるためだった。
そして、カミーユが19歳の時に彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子となった。その時、ロダン42歳だった。
師弟の2人は、恋愛の関係となるが、ロダンには内妻ローズがいた。ただ、その関係は、その後15年にわたって続いていく。
カミーユは20代後半にロダンの子を妊娠するが、ロダンは産むことを認めず中絶に至る、その時の心労から、2人の関係は破綻した。芸術と私生活の両面でカミーユは、ロダンを支えてきたにも関わらず、非情なロダンだ。
1905年頃、精神不安定となり、多くの作品を破壊したと言われる。翌年の1906年に実弟のポールが結婚し外交官として、任地の当時の国際都市-上海へ向かった後は、自分のアトリエに引きこもるしかなかった。
1913年、幼少期から、唯一の理解者であった父ルイが亡くなり、統合失調症を発症した。母や妹は、カミーユの芸術を理解していないと言う以前に、その生き方を理解できないのだろう。
一人では生きてはいけない、誰でもが、心の支えは必要だろう。
Camille Claudel
(cc)カミーユ・クローデルとロダンの制作シーン
1913年3月10日、弟ポールによってパリ郊外のヴィル・エヴラール精神病院(Neuilly-sur-Marne)に入院させられた。
その後、第一次世界大戦の影響で南仏ヴォクリューズのモンデヴァーギュ精神病院(Malévoz Monthey - Hôpital psychiatrique)に転院し、退院の受け入れ先も無く、生涯をそこで過ごす事になる。入院後も人との接触はなく、毎朝の礼拝堂に向かうのが、唯一のルーティンであった。
1943年、没、78歳だった。それは、第二次世界大戦中でもあり、家族に看取られることもなかった。
「痩せて、その身なりと言い精彩を欠いた晩年の姿に面会した愕然とした」- 実弟のポール談
1951年、弟のポールはロダン美術館で彼女の作品の展示を行った。
そして、破壊を免れた、およそ90点の彫像、スケッチ、絵画が現存ししている。
2017年、カミーユが10代の頃を過ごしたノジャン=シュル=セーヌ(Nogent-sur-Seine)に「カミーユ・クローデル美術館」(Musée Camille Claudel)が開設された。
映画-ロダン カミーユと永遠のアトリエ(字幕版)- Trailer
(追記)カミーユ・クローデルは、才能ある彫刻家であり、且つ、精彩な美貌の持ち主だ。それは、残された作品が語っている。
しかし、それがために、人生の後半は、何とも辛い話だ。亡き後のカミーユ・クローデル・ミュージアムが、唯一の救いのような気もする。
ヴィル・エヴラール精神病院には、アントナン・アルトー(Antonin Artaud, 1896-1948/フランスの俳優・詩人・小説家・演劇家)や、佐伯祐三(1898-1928,洋画家/1928年-自殺未遂の後、亡くなる、その直後に6歳の娘も病死)も、入院している。
表象に専念すると言うことは、何だろうと考えてしまうが、とにかく、作品が残って、その人となりをも、作品が語っているのだろう。