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#2)写真家クラレンス・H・ホワイト、時代の先駆者の人間関係と苦悩

クラレンス・H・ホワイト(Clarence Hudson White,1871-1925)
アメリカのピクトリアリスムの写真家・写真教育者。そして、フォト・セセッションのメンバーだ。そして、フォト・セセッションは、写真を芸術に引きあげる方向性にあったということだが、その解散の後、その個性の強いメンバー間には、確執もあった場合もあるが、多様な方向性を示唆している。それが、後の文化を支えている。
ピクトリアリスムの時代の写真家は、いわゆる学際(知の共有)として、科学(写真化学・機械工学)と芸術(アートとしての写真の方向性の模索)を追った。
それは、現在(2020年)に於ける、スキルアップから、スキルチェンジの時代の方向性と近似しているということだ。

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(c)Clarence Hudson White

略歴と、ポイント(その2)
それまでに、クラレンス・H・ホワイトは、コロンビア大学ティーチャーズカレッジで写真を教える等の益なキャリアと能力を認められていた。
そして、フォト・セセッションの中心核であるスティーグリッツ(Alfred Stieglitz/ドイツの大学で写真化学を学んでいる)にも、その評価は高かった。

1907年に、ホワイトとスティーグリッツ(彼らはフォト・セセッションの主要メンバーだった)は、写真化学の2つの実験を行った、それは、スティーグリッツはモデルのポーズについて提案し、ホワイトはカメラに焦点を合わせたり、シャッターを切り、また、ホワイトもネガを開発し写真をプリントした。その実験の目的は、当時の写真化学であり、プラチナ、ゼラチンシルバー、重クロム酸ゴムなど、様々な印刷(プリント)技術や紙を試すことだった。まさに学際的な視点だろう。
このコラボレーションの間にスティーグリッツから、ホワイトはオートクローム(リュミエール兄弟のカラー写真プロセス/この当初は、モザイクでの加法混色-RGB)を学んでいる。
この事は、1908年、スティーグリッツは、コラボした16枚の写真にカメラワーク誌の全号を捧げた、ホワイトへ畏敬の念をこめてだ。
スティーグリッツは、ベルリンポリテクニック(Polytechnic)大学で、写真化学を学んでいる。そのスティーグリッツは、当時の写真界の経歴と能力のあるホワイトには、大きな期待や今後の思いを抱いていたのだろう。
そして、スティーグリッツは、ジョージア・オキーフの夫であり、オキーフを世に送り出した人物だった。スティーグリッツは、傲慢な人物と受けたれがちだが、20世紀の芸術に大きく寄与しているだろう。スティーグリッツの芸術に対する真贋を見極める視点は、確かなものだった。

1908年、ホワイトは、当時ブルックリン芸術科学研究所(ブルックリン美術館)の講師に任命される。
1910年、スティーグリッツは、ニューヨーク州バッファローにあるオルブライトギャラリーでフォト・セセッションのアーティストの大規模な展示の取り組みを主導した。スティーグリッツの独断性は、それまでにも、顕著だったが、その際にも、メンバーの選択肢に他の意見を聞き入れなかった。
フォト・セセッションのホワイト他何名かは、その時点で、スティーグリッツとの関係を絶っていた。特に、スティー グリッツとホワイトは、コラボまでした仲であったことが、分裂の溝を深くした。芸術を成すもの強い個性が存在するだろう、ある意味、仕方のない事と言うより、そうなる事は必然だったのかも知れない。

1925年、ホワイトは、撮影中のメキシコで死亡(循環器)した。54才というとある意味、現在では、夭折だったのかも知れない。
ただ、最期まで、そして、ホワイトの没後も、ホワイトとスティーグリッツの確執は埋まる事はなかった。

この時代の写真世界に於けるアメリカでの中心核は、スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)であった事は揺るぎない。
ホワイトは、晩年、スティーグリッツに和解を求めたが叶わなかった。
スティーグリッツは、ホワイトを虚栄心と野心の持ち主と言うようなところまで、言及が続くのだが、これらの言葉にもかかわらず、スティーグリッツは、最期まで、ホワイトの写真(また、その中にはコラボのフォト18枚)を49枚をコレクションとして、大切に所蔵していた。
スティーグリッツも、強い個性の持ち主だが、確執という些事を超えて、写真を観る目も極めていたと言うことだろう・・・


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