ジョン・D・グラハムの波乱の人生と偉業
ジョン・D・グラハム(Ivan Gratianovitch Dombrovsky/John D. Graham,1886-1961/画家)
ウクライナ生まれのアメリカの モダニズム(Modernism/ 近代主義-実験的な芸術運動)で、比喩的(Figurative art)な画家であり、コレクター、ニューヨークのモダニストアーティストの求心力のある指導者(mentor)的な存在だった。
ジョン・D・グラハムは、芸術と創造性の才能と、人を育てる力、かつ、財力や、時代の洞察力も備えた作家だ。
また、抽象表現主義世代を育んだ作家であり、求心力のあるコレクター、キュレーター(展示会の企画)だった。
by John D. Graham
略歴とアートワークの流れ-John D. Graham
ポーランドとロシア系の両親の貴族階級に生まれ、いわゆる古典教育を受け、後に法科大学院で学ぶ。ロシア帝国陸軍で騎兵将校を務めている。
ロシア革命によって、1918年に皇帝ニコライ2世と彼の家族が処刑された後、投獄されている。第一次世界大戦後、母親の母国ポーランドのワルシャワに逃亡していた。
1920年、ドンブロフスキー(Dombrovsky)は、ベラ(2番目の妻)とその息子ニコラスと共に米国に移住した。その後、ニューヨークに定住した。
ドンブロフスキー(Ivan Gratianovitch Dombrovsky)は、米国で自分自身をジョン(イワン)と呼び始めた。
1925年、3番目の妻であるエリノール・ギブソン(アーティスト)と一緒にボルチモア(メリーランド州)に移り住んでいる。(1934年に離婚)
1927年、アメリカ市民になると正式にジョンD.グラハム(John D. Graham)に名前を変更している。
ニューヨークで、画家・コレクターとして、定着するまでに、これだけの苦難の道だ・・
ジョンD.グラハムは、30代の時、アートに興味を持ち、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(Art Students League of New York)で絵画を学んだ。それは、モダニズムだ、そして、グラハムは、この時点で、自身の作品で、すでに注目を浴びている。
また、その時点で、*アシュカン・スクール(Ashcan School)の創始者でもある、ジョン・フレンチ・スローン(John French Sloan,1871-1951/US-painter and etcher)を支援しているのだ。
(註)*アシュカン・スクール(Ashcan School/ニューヨーク):20th初めの芸術運動で、都市と現代の日常生活についての特定の真実を伝えたいという願望で構成されていた。
その後、ジョンD.グラハムは、自分自身の作品で、多くの注目を集める、それに加えて、コレクター、そして、キュレーターとしての役割も果たし、このモダニズムの新しいムーブメントを推進しているのだ。
ニューヨークで、抽象表現主義のスタイルを発展させた若い世代のアメリカ人アーティストの中心的な役割となった。 グラハムは、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、アーシル・ゴーキーなどの若いアーティストの指導者(mentor)的な存在となっていた。
1940年代に、グラハムはマリアンヌ・シャピラと5度目の結婚をしている。(恋愛については、偽りのない人なのだろうか・・)
1940〜1950年代に、グラハムは古典的な美術の巨匠から派生している、比喩的な絵画の新しいスタイルを確立している。(ロシアの兵士の絵画や素描を描く)
スチュアート・デイヴィス(Stuart Davis, 1894-1964/アメリカの画家モダニズム)とハンス・ホフマン(Hans Hofmann,1880-1966/アメリカの画家-抽象表現主義)と並び、グラハムは、抽象表現主義世代のアメリカの画家や彫刻家の多くを育成したと人物と言えるだろう。
1961年、ロンドンで亡くなった。
その後、ジョンD.グラハムの知名度やアート界への貢献から、1968年、MoMAは、ジョンD.グラハムの作品の巡回展を開催している。
John D. Graham
ここで、グラハムの人生が、簡潔にまとまる筈もないが、多くの偉業を成すも、実に波乱万丈の人生だ。
そして、その作品は、その人なのだ。
当時の富豪は、ごく当然のように社会的貢献を行っている。グラハムは、自らの画業より、後進のために、尽力を惜しまなかった。
例えば、その1つが、アシュカン・スクール(Ashcan School)だろう。
それが、その時代の「イメージと文化」を支え、次の時代の抽象表現主義世代を育んだ作家だ。