アーシル・ゴーキーとは誰だったのか?(欧州モダニズムとアメリカの抽象表現主義をつないだ作家)
アーシル・ゴーキー(Arshile Gorky / Vosdanig Adoian,1904-1948/アルメニア系アメリカ人-画家)
その作品から、分類するならば、 シュルレアリスム、また、抽象表現主義の作家と言えるだろう。
20世紀のアメリカにおいて、マーク・ロスコ、 ジャクソン・ポロック 、そして、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning,1904-1997/オランダ系アメリカ人- 抽象表現主義の画家)、そして、アーシル・ゴーキーは、強力にアメリカを牽引した画家の1人と言えるだろう。
1904年、アルメニアに生まれる。(生年月日は、諸説あり、正確ではない)
ヴァン湖(オスマン帝国の東の国境近く)の畔に住んでいた。
オスマン帝国軍が、アルメニアの人のいわゆる、民族浄化を始めたとき、ゴーキーはまだ、10代だった。
ゴーキーと彼の家族はアルメニア人虐殺を生き延びたが、その直後である1915年、ゴーキーの母親は、栄養失調で亡くなっている。
そして、1920年、生き延びたゴーキーは妹と共に、先にアメリカに渡っていた父親を頼って、アメリカに移住した。
(註)彼(アルメニア人-Vosdanig Adoian)は、Arshile Gorky(アーシル・ゴーキー)に変更し、ロシアの貴族の流れと言い、また、ロシアの作家であるMaxim Gorkyの親戚であると主張していたとも言われるが、その初期の頃は、ほとんど、知られていない。
ただ、ここまででは、ただの詐欺のようだが・・まずは、最後まで、お読みただきたい。
1924年、ゴーキーは、ニューヨークに永久に定住した。
アーシル・ゴーキーは、いくつかのアートクラスにパートタイム登録していたが、絵画は、ほぼ独学であり、美術館やギャラリーでのアートワークを模写や、アート出版物を読んで知識を得ていた。
特に、当時のヨーロッパの現代美術に着目している。例えば、ポスト印象派 ポール・セザンヌ・・・
そこからは、彼の初期の絵画「スタテン島 」(1927)と 「梨、桃、ピッチャー」(1926-1927)は、セザンヌのスタイルに影響している。エミュレート(模倣)することへのコミットメント(自身の行動への縛り)を示しているようだ。
(cc)スタテン島
(cc) 梨、桃、ピッチャー
この時代のゴーキーは、独創性の欠如と他人のスタイルに没頭する傾向があると、当然の批判されている。
また、「芸術家と彼の母親」(1926-1936頃制作)は、1912年にアルメニアで撮影された古い写真に基づいている。
ただ、この感情のこもった肖像画は、作家の個人的な喪失感を表現しているが、それは、アルメニア人虐殺の悲劇の象徴にもなっているのだ。
(cc)芸術家と彼の母親
そして、1930年代後半から1940年代にかけて、ゴーキーは、シュルレアリスムのニューヨークのアートシーンで活躍するグループに関わっている。
その時に、アンドレ・ブルトンとも、交友関係を持っているのだ。
また、その間に結婚し、バージニア州の片田舎、そして、コネチカット州シャーマンで、自然と触れ合い、その時の自然への思いが作品になって今も伝えている。
アメリカの風景の多くの要素が彼にアルメニアの故郷を思い出させたのだろう。
当時の作品として、「The Liver is the Cock's Comb」(1944)、「Water of the Flowery Mill」(1944)
(cc)The Liver is the Cock's Comb
(cc)Water of the Flowery Mill
だだ、その数年後、スタジオの火災、家族の離散、そして、健康上の問題(ガンや事故による負傷)による混乱に見舞われた。
1948年7月21日に自ら亡くなった、44歳だった。
Arshile Gorky (Vosdanig Adoian)
アーシル・ゴーキーとは、誰だったのか・・
アンドレ・ブルトンまでをも利用した、詐欺師だったのか?
いや、ブルトンが、アーシル・ゴーキーを使ってニューヨークへも影響を与えたいがために・・
それとも、本当に、ロシアの貴族の流れだったのか、そして、ニューヨークのアートシーンを席巻すべく、動いたアーティストの本来像なのか??
アーシル・ゴーキーと自らを呼んだその人物は、いずれにしても、アメリカのアートシーンに、大きな影響を残し、ヨーロッパのモダニズムとアメリカの抽象表現主義を結びつけたことは確かだ。
そして、抽象表現主義の画家として、アーシル・ゴーキーは、後進の育成と共に、強力にアメリカを牽引した画家の1人と言えるだろう。
以下、ご参考まで
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