見出し画像

【創作】芥川のかき氷【幻影堂書店にて】


※これまでの『幻影堂書店にて』




 
 
 
ノアはデスクの横にあった白いプラスチック製の棚の扉を開けて中を見ている。
 
「今日は紅茶を切らしていてね。飲みたいものはある?」
 
光一は何度もこの書店に来ているが、それが冷蔵庫だと初めて知った。
 
「特にないなあ。何がある?」
 
「そうだねえ。オレンジジュースがあるから、今日はこれにしようか」
 
ノアはそう言ってジュースの瓶と、冷蔵庫の上の冷凍庫から氷を取り出し、お皿を出す。
 
ノアが指をさっと振ると、本棚から橙色の表紙の本が飛んできて、白いページが光り、氷が吸い込まれていく。そして、閃光が飛ぶと、二つのお皿の上には、氷の小さな山が出来ていた。
 
「どういうこと?」
 
「この前から、本に書かれている内容の力を少しだけ出せるようになったの。まあ、大きい何かではないけど、こうやって、手元の範囲くらいにはね。何というか、自分の力が戻ってきたように感じる。以前は持っていたような」
 
「どこでその力を持っていたか、思い出せる?」
 
「いいえ、そこまでは。だからまあ、これはほんの手品みたいなものね」
 
ノアは、そう言ってオレンジジュースの瓶を開け、かき氷にかけると、光一に薦めた。光一がひとさじそれを口に入れると、甘酸っぱいオレンジの味が口の中に広がる。
 
「そうか。ところで、その本は、かき氷に関する本なのかな?」
 
「そう、芥川龍之介が書いた『花火と氷菓子』という短編小説だよ。実は、この小説は、書いてからは発表されずに、後に別の小説に「転用」されている」
 
「つまり、書き直されているわけだ」
 
「そう、勿論表の世界では流通していない。読んで御覧」


芥川龍之介


江戸時代末期、呉服屋の小僧、佐吉は、反物を届けに行った先の家で、美しい女性にお願いされ、夜の街を荷物持ちとして一緒についていくことになる。
 
江戸の夜は妙に賑やかで、人々から殺気のような熱気が溢れている。二人はとある大きな屋敷に辿り着いて、中を案内される。女性はどこかに行ったが、戻ってくると、お手伝いさんに氷菓子を持って来させる。佐吉は氷菓子を食べたことはなかった。
 
甘いあんみつが掛かった、雪のような氷菓子を真夏の暑い夜に食べることに、佐吉は背徳感のようなものを覚えつつ、夢中で平らげる。美味しかったかと女性に聞かれて頷くと、女性は静かに微笑んで答える。
 

そのかき氷は、あなたの人生のようなものよ。溶けて、甘い感触だけが残る。

 
その時、女性の背後で、花火が華やかに上がった。
 
佐吉と女性はその日会ったきりだった。数日後、大政奉還が起こり、江戸時代は終わる。
 
後年、佐吉はその女性のことを調べ、幕府の重臣の娘であったことを知る。そして、彼女には薩摩側のスパイだった容疑があり、佐吉が会った数か月後、何者かに夜道で惨殺されている。

もしかすると、あの屋敷も、薩摩との密会の場だったかもしれない。佐吉は毎夏、かき氷を食べる度に、彼女と、彼女の言葉を思い出すのだった。




光一は顔を上げた。
 
「美しい短編だったと思う。これを発表しなかったのは惜しい気がするな」
 
「そうだね」
 
「これは、どういう作品に転用されているの?」
 
「『舞踏会』という短編だよ。そこでは、明治時代の鹿鳴館で催された舞踏会で、初めて舞踏会に出た女の子が、フランスの軍人と、一緒に踊ったり会話したりするという、これも美しい作品だ。
 
その軍人さんが意外な人物だった、というおちは一緒だね。そして、その年上の人物に、とある印象的な言葉を掛けられるということも。ただ、『舞踏会』でも、アイスクリームと花火が出てくるけど、丁度役割が逆になっている。つまり、花火が人生の比喩になるんだ。液体と火、真逆の物質に変わるんだね」
 
「それで、更に性別も逆転させたわけだ。なぜだろう」




「当て推量だけど、元々これはすごく個人的な体験のような気がするんだ。芥川が、幼少期に体験したかのような。
 
小さい頃、誰か年上の女性に、氷菓子を食べさせてもらって、こんな言葉を掛けられたのではないか。で、小説にしてみようとしたけれど、あまり劇的じゃないから、時代を少し変えて幕府の崩壊と重ね合わせてみた。でも、あんまりうまくいっていない。だって彼は明治生まれだ」
 
「そもそも、江戸時代にかき氷はあったのかな」
 
「そう、それ。雪や氷を氷室に保存しておいて、夏に食べるのは、かなり上流階級だ。氷水を出す専門店が出たのは、明治になってからだから、江戸末期に出すのはちょっと怪しい。で、色々考え直すうちに、全体が上手くいかないのを感じ、設定を全く変えてみた。
 
初心な女の子と、異邦の年上男性。とすれば、鹿鳴館にして、相手はフランス軍人はどうだろう。そして書いていくうちに、人生を氷菓子に喩えた年上の女性の言葉が、花火への喩えに大胆に変わる。こんなところかな」
 

鹿鳴館の舞踏会の様子


「面白いね。設定は思い切って変えた方が意外とうまくいくものだね」
 
「そう。芥川は、あらゆる時代を題材にした、いわば「モダンな小咄」を創るのが抜群に巧かった。『鼻』や『杜子春』のような「王朝もの」でも、中身は彼自身のような近代的な人間の葛藤になっているから、彼にとって舞台や時代というのは、割と交換可能だったのかもね」
 
「その『舞踏会』も読んでみたいな。僕はここにいる間は、表の世界の本は読めないから・・・」




光一がその言葉を発した途端、橙色の本が再び宙を舞うと、今度は灰色の霧のような物を発して、辺りを包んだ。薄暗い闇の中で、光一は、何かの文字が頭に浮かぶのを感じた。
 
 

明治十九年十一月三日の夜であった。当時十七歳だったー家の令嬢亜希子は、頭の禿げた父親と一しょに今夜の舞踏会が催さるべき鹿鳴館の階段を上がって行った。明い瓦斯の光に照らされた、幅の広い階段の両側には、殆人工に近い大輪の菊の花が、三重の籬を造っていた。 


 
それは、芥川の『舞踏会』だった。確かに、この本を、表の世界で読んだことがあると思った。ここは、「表の世界」なのか? 辺りを見回しても、自分自身が暗い海中にいるようで、動けない。
 
結語まで読み終えると、光一は目を開けた。すると、そこはいつもの幻影堂書店だった。




「どうしたの?」
 
ノアが、心配そうに尋ねる。
 
「『舞踏会』を読んだよ。表の世界を見た気がしたんだ。ここにいて、初めて読んだ「表の世界」の本の気がする」
 
ノアは、そう、と言った。
 
「僕も、何かを思い出そうとしているのだろうか」
 
「分からない。でも、繋がっていることは確かだから。そして、私たちは変わっていっているのも確かだと思う」
 
ノアはそう言うと、光一の頭を静かに撫でた。冷たい、陶器のような感触だと光一は思った。
 
「私たちの人生は、氷菓子のように、夜の花火のように、消えていくもの。光や甘さという形のない記憶だけを残す。その記憶を私たちも、ここでもう一度手に入れようとしているのかもしれないね」







(続)


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集