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光の速さで駆ける -ラオール・ウォルシュの映画の面白さ


 
 
【木曜日は映画の日】
 
 
物語の大事な要素の一つに、スピード感というものがあります。
 
小説で、短い文ばかり繋げれば、(多少は読みやすくなるけれど)スピード感が上がるわけでもない。映画の場合、短いカットを繋げれば、(刺激的だけど)体感速くなるというわけでもない。
 
「速さ」というのは、進行が全てスムーズに繋がって、尚且つ、物語にちゃんと深みを感じられるような味わいが必要に思えます。つまり、あくまで体感であり、受け手側の意識が作るものなのだと感じます。
 
映画監督のラオール・ウォルシュが1930年代~50年代に残した傑作ハリウッド映画は、驚くほど進行が、「速く」、面白く、色々と刺激を与えてくれる作品群です。




ラオール・ウォルシュは、1887年ニューヨーク生まれ。俳優であると同時に、草創期のハリウッドで、監督も務めています。ちなみにD・W・グリフィスの『国民の創生』でリンカーンを暗殺するジョン・ブースを演じています。
 
サイレント時代から活躍し、年に長編2,3本は当たり前の、物凄いスピードで撮っていきます。『バグダッドの盗賊』(1924)は大スター、ダグラス・フェアバンクスの代表作になっています。彼以外にも、ジェイムズ・ギャグニー、エロール・フリン、ハンフリー・ボガードら、スター俳優主演の傑作を撮っています。
 
初監督は1915年、そして遺作『遠い喇叭』は何と1964年という、多作且つ長命の映画監督でした。1980年、93歳で亡くなっています。


『ハイ・シエラ』(40)




実のところ、私は彼の全作品を見ているわけではありません。特にサイレント映画時代は、全くと言っていいほど手つかず。
 
それでも、彼の30~40年代にかけての作品は大好きです。それらは、ごく普通に撮られているはずなのに、事件の連続で、目を離せないくらい面白い作品であり、見終わった後に「何て速いんだ」と感嘆してしまいます。
 
例えば『戦場を駆ける男』では、第二次大戦中、爆撃機がドイツ軍の真っ只中に不時着して、絶望的な状況に追い込まれたイギリス空軍将校たちが、追っ手から逃げ、様々な困難に次から次へと直面して、と物凄いスピードで進みます。
 

『戦場を駆ける男』(42)


それなのに、決して急いでいる感もなく、余裕綽々の主演のエロール・フリンの仕草のように、優雅で、乾いた陽性のトーンは保たれています。なお、ここで彼を支えているのは後のアメリカ大統領ロナルド・レーガン。彼の演じた役でも屈指のはまり役だと思っています。




あるいは、『彼奴は顔役だ!』では、第一次大戦の戦場で出会った男たちが、戦後不況、禁酒法時代のさなかに再会し、密売からギャングとして頭角を現すまでが、これまた淀みなく語られる。
 

『彼奴は顔役だ!』(39)


それでいて、主演のギャグニーの哀愁や、痛みも伝わってきて、決して乱暴にまとめられた印象はありません。
 
一体これはなぜなのか。映画評論家の赤坂太輔氏は名著『フレームの外へ』の中で短く、ウォルシュの『恐怖の背景』(43)の一部分を分析し、そこで、人物や車が中央を走り抜けた瞬間に画面が切断され、次の画面に繋がるということを指摘しています。


「カーブを走る車」とは、観客の正面に車が向かってくる運動と左右に移動する運動の「速さの頂点」を見せる運動であり、認知することが最も難しいこの「速さの頂点」で動きを繋ぐという編集が、観客の視線に「追いつけない」という印象をもたらすことを、ウォルシュは知っていたかのようだ。
 
(中略)
 
その「追いつけない」感覚は、一方で実際に我々の視線が運動に追いつけないことから来るのである。


 
この指摘は、ウォルシュの「速さ」が、何から由来しているかを、的確に指摘しているように思えます。
 
そう言われて意識してみていると、ウォルシュの映画では、ごく普通の会話シーンですら動きが止まる前に丁寧に繋がれて、「ため」とか「余韻」だとかを残したりはしません。『戦場を駈ける男』で、最初の作戦を話すシーンですら、観ていてリズムを感じます。
 
感情は、全て俳優の動きや表情(顔の動き)で語られ、それを大げさに台詞やイメージで説明したりしないで、矢継ぎ早に動きが連なる。カット自体は結構長いものもあるけど、運動が途切れないから、中だるみしない。
 
それゆえに、人物の感情やストーリーの面白さはヴィヴィッドに伝わりつつ、素早く画面を通り過ぎて「追いつけない」。だから、観ても過剰なイメージで飽和せず、また観たくなるのです。





なぜウォルシュがこんな境地に達したのか。勿論、彼が40年代で既に30本近く撮った20年近いキャリアの大ベテランであり、またハリウッドの撮影所システムが最盛期を迎えていた故に可能だったのは間違いないでしょう。
 
ただ、同時に、ニューヨーク生まれの彼の中に、ある種都会的な資質があったようには思えます。
 
決して湿っぽくならずに、洗練され、感情豊かではあるけど、泥臭くはない。過去を振り返り、懐かしむことはあっても、強い欲望を持って歩き出す。その感覚が、途切れない運動に繋がっている気がします。
 
彼の映画は、決して能天気なものではありません。例えば、『ハイ・シエラ』や『彼奴は顔役だ!』での、ハンフリー・ボガードの凶暴な表情。『白熱』での、ギャグニーの腺病質な口調と、あの「ママ、おれは今世界のてっぺんにいるんだぜ!」という狂気の絶叫。
 

『白熱』(49)


『いちごブロンド』では、一歩間違えば、悲劇になるような人生の痛みが、ロマンチックなコメディとして描かれます。


『いちごブロンド』(41)


『追跡』では、西部劇にトラウマを巡るニューロティックな心理サスペンスを取り入れました。そして、『彼奴は顔役だ!』の、あの哀愁漂うラスト。
 
そのどれもが、人物の苦しみを突き放すでも包み込むでもなく、「素早く」通りすぎる。その瞬間に、ほんの少しの痛みを感じさせつつ、映画は終わります。




ウォルシュの映画は、例えば、短編小説で数十年の時を経るような題材を扱いたい人にも、かなり刺激を与えてくれて、参考になるのではないかと思います。
 
つまり、説明過多にならず、人物のアクションをどうつなげて、どこを省略すれば、読者や観客は受け入れてくれるのか、を非常に分かりやすく教えてくれる。

こうした「時」を編集する技術が、これほど洗練された例は、なかなかないように思えるのです。




ウォルシュの映画はまた、都会的な優雅さを持った人物たちの、冒険映画でもあります。
 
『戦場を駈ける男』や、傑作『遠い太鼓』は戦争映画である以前に、曲がりくねった困難な道を、ひたすら駆けて行く人物の冒険を捉えています。
 
それは、人の視線が追いつけない光の速さを持って、人物たちが無我夢中に人生を駆け抜けていく映画です。私たちの人生が冒険であることも伝えてくれる、最高に洗練された美しい映画とも言えるのでしょう。




お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。



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