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【創作】異端の歌を聴きながら【幻影堂書店にて】
※これまでの『幻影堂書店にて』
光一は、ノアにお願いされて、デスクの前に座って、蓄音機を修理していた。ようやく動き出したのを確認すると、顔を上げて一息つく。書店の本棚に詰まって並ぶ本をみて、ふと思ったことを口にした。
「この本屋で一番高い本は何なんだろう」
ノアは、紅茶を淹れて、光一の方に出すと、笑って言った。
「そうだなあ、表の世界での金銭は使えないから、計るのが難しいところではあるね」
「基本的にこの店のやり取りは物々交換になるわけだね」
「そう。だから、そうそう交換に応じられない貴重な本が、高いものと言えるかもしれない」
ノアがそう言って手をかざすと、薄いセピア色に古ぼけた冊子が飛んできた。
「多分、これがこの本屋で一番価値のある本だ。はっきり言って、値段はつけられない」
「随分薄い本だね、内容は?」
「キリスト教史上最大の異端宗派、カタリ派の内部秘蔵経典。彼らの讃美歌の録音の特典付きだ」
カタリ派、別名アルビジョワ派は、紀元11世紀頃に南フランスで広まった、キリスト教の一宗派。何度もカトリックの教会会議で異端とされ禁じられるも、広まりは衰えなかった。
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1209年、ローマ教皇インノケンティウス三世の呼びかけにより、「アルビジョワ十字軍」が結成され、南仏民は、この討伐隊により、虐殺を受けることになる。
最終的に1229年に和平協定が結ばれ、南仏は現在の北フランスのルイ8世の支配下となる。転向と、異端審問による告発・火刑も続けられ、1320年代には、ほぼカタリ派は消滅したとされている。
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インノケンティウス三世
ノアは指を振って語る。
「カタリ派の内部で使っていた教義書のようなものがこの冊子。何せ、虐殺によってほぼ消滅しているので、僅かに残った資料や、異端審問の記録でしかその実態が分からない。だから、とても貴重なんだ。ここに、「すべては聖書に基づく」という記述と、その教義の第一項があるね。
まず、彼らはこの世界はサタンが創ったと考えた」
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「いや、悪魔がこの世を創るなんて聞いたことがないよ」
「悪魔が創ったんじゃなかったら、何でこの世はこんな悲惨なんだい?」
「ううん、なるほど?」
「その主張の背後には、紀元1000年を迎え、千年紀に黙示録によるこの世の終わりが訪れるという恐怖から解放された当時の思想の変化と、気候が温暖になったことによる、人々の落ち着きがある。そしてそれでも、カトリック教会の富の独占による堕落で、生活が厳しかったこともあるね。
この宗派が特異だったのは、贖罪の概念がないことだ」
「この世はすべて悪なのに?」
「この世が全て悪なら、この世で罪を償う必要なんかないだろう。償いとは、正義と悪に分かれるから存在する」
「じゃあ生きることは?」
「当然、罪を償うことではないし、カトリックや後のプロテスタントのように、来世で天国に行くために、この今の世を守って勤勉に働いてよりよい世界にするものでもない。
生きることはただ、この悪しき世界の終焉を待ちながら、天国に入れるよう、悪しきこの世をやり過ごすように、歌って時を過ごすこと。
それゆえに、彼らは禁欲的な生活で、この世の偶像や芸術、あらゆる政治や社会の秩序、戦争も全く認めなかった。この内部教義書には、彼らが他の信徒に解く、易しい問答集のようなものもある。活動の中での「悪しき例」が挙げられている。読んで御覧」
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モンセギュール城跡
あるところに男がいた。その男は、人や鳥の姿をうまく描くことができた。その男は、教会に言われて神の姿を描いて得意になっていた。
ある時彼は愛する妻を失い、泣いて過ごした。やがて、妻の姿を描いてみようと思いついた。彼は卓越した力を持っていたので、家の壁に妻そっくりの姿を描いた。だが、その姿に触れても、妻が戻ってこない。苦しみのあまり、彼は自分の家に火を放って苦しみながら死んだ。
この世の偶像とはこうしたものである。彼が描いた妻の姿は、塗料の塊に過ぎない。こうしたものの幻に惑わされるのではなく、ただ穏やかに過ごし、来るべき時を想うべきであり・・・。
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その時、人々の合唱が響いてきた。光一が顔を上げると、蓄音機にノアがレコードをセットしていた。
「これが彼らが歌っていた歌とされる。「いつか私たちは空に行く」というコーラスだね」
「何というか、ゴスペルっぽい、皆が一体になれる暖かい音楽だね」
「そう、かなりゴスペルっぽいね。実際、カタリ派の中には、北方のキリスト教だけでない、土着のマニ教などの影響が流れ込んでいる。19世紀以降、アフリカから移住した黒人奴隷の音楽に教会音楽が結びついたゴスペルと、実は共鳴するところがあるのかもしれないね。
悲惨なこの世を、歌うようにして、踊るようにして時を過ごそうというような」
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カタリ派の最後の牙城となった
そのノアの言葉を聞いた瞬間、光一の視界が真っ白になった。
視界が開けるとともに、そこは部屋だと分かってくる。水の音が流れている。誰かが、レコードと同じ音楽を口ずさんでいた。視界に色づくに従って、光一にはそれが誰か分かった。
それは、光一の母親だった。
どこか未来の部屋で、彼女は皿や食器を洗いながら、鼻歌を歌っていた。その顔が懐かしく感じられる。確かに母親だと思った。
彼女に呼び掛けようとしたその時、視界が暗闇に包まれた。眼を開けると、そこは元の書店であり、ノアが呆然とこちらを見つめている。ノアがおずおずと口を開いた。
「母さん、って呼んでいたよ。何か見たんだね」
「ああ」
光一は説明した。
「あれは、僕の本当の母さんだったんだろうか」
ノアは唇に指をあて、考え込みながら、ゆっくり噛んで含めるように言葉を発する。
「多分、そんな気がする。君には、どこかに家族がいる。その姿はきっとどこかの世界での、君の本物の家族だ」
「不思議だな。この世の幻を禁じる宗教の本を読んでいる時に、ここじゃない家族の幻を見るなんて」
光一が汗を拭きながら、そう自虐的な口調で言うと、ノアは首を横に振った。
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カルカソンヌ城塞都市跡
「寧ろそうだからこそ、君が望む幻が見えたのかもしれないよ。カタリ派は確かに偶像を信じなかった。でも、それは当時の既存の教会の圧政的な信仰に馴染めなかっただけであって、ここではない遠くを希求する気持ちは、非常に強いものがあった。
やっぱりどんな宗教でも、いつの時代でも、ここにない幻を、今手に入れたい、この世を変えたいという欲望は、人間の中で否定できないんだろう。
だから、この本屋にも、様々な幻をこの場所に再現する装置が大量に流れ込む。その欲望は君にもあるのだから、それは求めるべきだ。きっと君のお母さんの幻も、君には何かの意味がある。
ひょっとすると、人間自体が、この世界をただ生きて死ぬだけでなく、世界を変えて何かを残そうと苦闘している、自然にとって異端な存在なのかもしれないね。それは決して悪ではないと、私は思うよ」
(続)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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