人生の日食に触れる -名作映画『太陽はひとりぼっち』の美しさ
【木曜日は映画の日】
イタリアのミケランジェロ・アントニオーニの映画は、「愛の不毛」という惹句をよく使われ、憂鬱な表情をした女性たちが、盛り上がらないひたすら憂鬱で不毛な会話を繰り広げる、と言われがちです。
それはまあ、間違ってはいない。しかし、私は彼の映画が大好きで、観る度に元気を貰えます。そこには、決して不毛ではない、落ち着いて、時にはリリカルである、モノクロの澄んだ空気感があるからです。
彼のミューズであったモニカ・ヴィッティと、先日亡くなった美男スター、アラン・ドロンを主演に迎えた1964年の映画『太陽はひとりぼっち』は、そんなアントニオーニの充実期に、彼の特色が良く出た名作です。
若い女性ヴィットリアは、恋人のリカルドと別れます。昼間、素人投資家の母親に会うため、証券取引所に向かうと、若い株式中買人、ピエロと出会います。
株式が大暴落したことをきっかけに、ヴィットリアとピエロは再会し、少しずつ二人は近づくのですが。。。
この作品の衝撃というか、やはり言及しておく必要があるのは、ラスト10分でしょう。
詳細は述べませんが、文字通り、主要な登場人物が消えてしまう、異様としか言いようのない時間。白黒の画面に、様々な街の断片が脈絡なく交錯する、驚くべき時間です。
どこか不穏な雰囲気があり、核に関するニュースの新聞も映ることから、世界の終わりを象徴しているのではと、公開当初から言われていました。そして、アントニオーニ本人は、それを明確に否定しています。
では、一体何なのか。この作品の原題は『L'eclisse』、つまり、日食や月食といった「食」、天体が隠れてしまう状態のこと。その由来についてアントニオーニはこう述べています。
普段あるはずの、私たちを照らす何かが隠れてしまうこと、そこには夜とは違う、静寂がある。それは人の営みが突如消えてしまうような、空白の感覚であり、それがラストに呼応していると言えるのかもしれません。
勿論、これもまた解釈の一つであり、答えはありません。是非、御覧になって確かめていただければと思います。
故石原郁子氏の名著『アントニオーニの誘惑』にも書かれていますが、アントニオーニの映画は、画面だけを見ていれば、実は非常に表情豊かで、静寂だけでなく、喧騒にも満ちています。
『情事』の女流作家を迎える大衆、『夜』の夜会、『太陽はひとりぼっち』で言えば、何と言っても、証券取引所。凄まじいエネルギーに溢れており、突然それが静まり亡くなった仲間を一分間追悼して、また喧騒に戻るというのも、何ともユーモアを感じさせます。
そして人物も、しばしば怒り、泣き、感情豊かです。しかし、なぜ「愛の不毛」と言われがちなのか。
おそらく、そこに分かりやすいドラマの繋がりが欠けているからのように思えます。もっと言うと、人物の欲望が感情に結びつこうとすると、何かが邪魔して、空白になってしまうというか。
『情事』や『欲望』の失踪、『砂丘』や『さすらいの二人』、『太陽はひとりぼっち』のラストのように、欲望が成就しないだけでなく、宙に浮いたまま、投げ出されてしまう感覚。そこで、分かりやすいメロドラマを期待している観客の欲望もまた、宙に浮かんでしまう。それゆえに、難解だとか不毛だとかの印象を人によっては感じるのでしょう。
しかし、だからこそ、通常の映画とは全く違う時間を味わえるように、私は感じます。ドラマが空白になった時間に、その場所の空気感が流れ込んでくる。それが美しいのだと。
『情事』の海の光景の美しさ、『砂丘』の、白い光に照らされた、まさに生きているかのような砂漠。
『さすらいの二人』のスペインの乾いた空気。『太陽はひとりぼっち』の、ヴィッティが友人の有閑夫人たちと、アフリカの踊りを披露する場面の生き生きとした美しさ、ドロンとヴィッティが街を歩く、煌めくような光。そして、ラストの時間も、物体が驚くほど生々しい質感で迫ってきます。
つまるところ、彼の映画自体が、私たちの生の「日食」の時間を捉えているような質感があります。それはモダンな最上の現代美術の感覚にも通じるものです。
実際、1912年生まれのミケランジェロ・アントニオーニは、元々画家を目指していました。イタリアの撮影所チネチッタでロッセリーニらのネオリアリズモ映画製作に携わり、その後ドキュメンタリーや実験映画を手掛け、1950年『愛と殺意』で長編デビュー。
現代美術的な部分と、伝統的な撮影所の娯楽映画的な部分の両方のエッセンスを継いでいます。前者ばかりにフォーカスされがちですが、役者を魅力的に捉えているという意味では、大衆的な側面もまた持っているように思えます。
ヴィッティは憂い顔を持ちながらも、力強い視線、ギリシア彫刻のような顔の造形の美しさと映画スターの華やかさもある。そして『太陽はひとりぼっち』でのアラン・ドロンは、その美貌をストレートに刻み付けつつ、生き生きとした感情を、驚くほど素直に表現しています。
俳優としてのドロンは、見た目だけは美しい善人の皮の下にどす黒い悪漢の部分を隠し持った時に、映画的に輝く(『太陽がいっぱい』、『パリの灯は遠く』等)ように思えるのですが、そんな彼の、子供のように純粋な表情を引き出せた、稀な瞬間にも思えます。
「不毛」や「難解」という言葉だけに囚われてしまうと、こうした美しい細部を味わい逃してしまうように思えるのです。
私たちは、多分映画のようなドラマを常に生きているのではなく、ドラマのない日常を、何か空白があるように思いつつも、それを忘れながら生きている。
一直線にすべての映像がドラマに奉仕する劇映画ではなく、ただ風景を捉えただけのドキュメンタリーでもなく、ドラマをばらばらにして、そのフィルターを通して時間や空間の断片を味わうことで、ものや空間、時間そのものの、美しさを感じることができる。
その透明な時間や空間の感触こそが、私たちの中にある、一人一人違う本当に大切な何かなのかもしれません。是非そんな、日常やドラマとは違う美しい時間を、アントニオーニの映画で味わっていただければと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。
楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。