決断をして受け入れること -映画『ワイルド・アパッチ』の教訓
【木曜日は映画の日】
人は、様々な選択を迫られて生きています。そして、後悔など無意味と分かっても後悔してしまいます。
そんな時に背中を押してくれるのは、後悔なんて無意味だ、という言葉ではなく、その選択に意味があったと誰かに告げてもらうことのように思えます。
ロバート・オルドリッチの1972年の映画『ワイルド・アパッチ』は、優れた西部劇でありつつ、そんな選択を巡る、ある種の大人の作品です。
アパッチ族のウルザナが、ネイティヴ・インディアン居住区から脱走します。若い新進気鋭の将校デビュイン少尉は、その追撃を命じられ、経験豊富なベテランのマッキントッシュや、アパッチ族出身で今は軍協力者のケニテイの協力を経て、追撃隊を率います。
しかし、想像を超えるウルザナたちの残虐さ、そして頭の良さと強さに、白人居住地の被害は拡大。そして、追撃隊すら、疲労に浸され、じわじわと追い詰められていきます。。。
『ワイルド・アパッチ』は1960~1970年代に出てきた『修正主義西部劇』の一つと言われています。
凶暴なネイティヴ・インディアンの襲撃をカウボーイや騎兵隊が征伐する、例えば『駅馬車』のような従来の西部劇を見直す作品群。
凶暴な先住民像ではなく、彼らの善良さや文化、彼らに対して非道な仕打ちを続けた白人側の行為にフォーカスを当てることで、自国の歴史を持見つめ直す作品。
勿論そこには、ヴェトナム戦争での、アメリカの苦戦と自分たちがした行為への疑問、未知の他者との厳しい遭遇も影響しています。
『ワイルド・アパッチ』は、ウルザナ一味の凄まじい虐殺を描くところは、一見従来の西部劇と同じです。しかし、ここでの「敵」は、決してただの悪役ではない。
彼らには彼らの文化があり、それを知らないと、倒すことはできない。というよりこちらがやられてしまう。生き延びるために、強制的にでも知っていくのです。例えば、次のような会話にも如実に伺えます。
この会話にもあるように、『ワイルド・アパッチ』の見事な点は、デビュイン少尉の造形だと思います。
青臭さと感情的になるところを残しつつも、マッキントッシュやケニタイの助言は要所で聞き入れ、部隊を率いていく力もそれなりにある。
戦略の天才でも、暴走する無能で高慢な若いぼんぼんでもない。それでいて、もっと上の職級に進んでいくのに必須の、勤勉さとある種の心根の良さを持っています。
なるほど上官側からすると、これは現場を体験させて、育てたくなる人材と思わせる。その匙加減が大変リアルなのです。
そして、マッキントッシュとデビュインとのやりとりがこの作品の大きな魅力でしょう。
マッキントッシュは、まさにあらゆる死線をくぐってきて、アパッチを知り尽くした、百戦錬磨の大ベテラン斥候。一人だけ軍服を着なくても許されています。しかし、彼はデビュインの命令や選択を常に受け入れ、行動しています。
デビュインを教え諭すわけではなく、父親のように親密な感情を持ったりしない。かといって、厳格なプロフェッショナリズムを持っているわけでもない。
ただ、部隊と自分自身が生き延びるようにしっかり行動する。そして、ちゃんと自分で考えて判断するデビュインを一人の人間として尊重する。
それは、マッキントッシュが長いこと、アパッチ族という自分の他者に接してきて、自分とは違う文化を受け入れ、自分というものの核をしっかり持っているからこそだと思うのです。
だからこそ、マッキントッシュは、デビュインに、深刻でもなく、優しさも見せずに、ぶっきらぼうに接します。
そして、デビュインが逡巡しつつもとった行動、それがもたらした結果について、非難したりはしない。
あなたは、あらゆる選択をしっかりと考慮して、自分で決断を下したのだから、どんな結果になろうと、後悔する必要はない。その結果を受け入れることだ。そして、私はそんなあなたを自分で選択して受け入れたのだから、私もその結果を受け入れよう。
そうやって、人はある時は生き延びて、ある時はうまくいかずに生涯を終える。それはあらゆる決断の果てにあるのだから、貴方の選択したことは悪いことではないのだ。
このような言葉を交わしたわけではありません。しかし、終盤の二人のぶっきらぼうな、乾いたやり取りには、年齢も職級も関係ない、この世に生まれて束の間の時を過ごして死んでいく私たち皆が求める、どこか心温まるような絆が描かれているように思えます。
それは、是非ご覧になって確かめていただければと思います。
この作品には、図抜けた天才はいませんが、誰もが生きる知恵をしっかり持ち、自分以外の存在や世界をしっかりと見て、判断して生き延びています。成熟した、大人の苦みと痛みが滲み出る作品。
オリジナル脚本を書いたのはアラン・シャープ。奇妙なノワール『ナイト・ムーブス』や、一匹狼の殺し屋を描く名作『ラストラン』等、寡作ですが、70年代以降最も才能のある脚本家の一人だと思っています。
そして、監督のオルドリッチは、男くさいプロフェッショナリズムを貫きつつ、その過程で芽生える奇妙な交流や友情を描きました。
第二次大戦の危険な作戦を遂行するために選ばれた凶悪な犯罪者たちの活躍を描く『特攻大作戦』、遺作となった、女子プロレスラーのデュオの苦難と、どこか軽やかな道中を描く『カリフォルニア・ドールズ』等。
ある時、現場でスタッフがミスをしたと思い込んで腹を立て、罵倒したオルドリッチですが、スタッフの方も引き下がらず、やがてそのスタッフの方が正しかったと分かると、クルー全員の前で、オルドリッチはスタッフに頭を下げて謝罪したといいます。
地位や年齢は関係ない。ただ、ひとつの目標に向かっているのだから、ある時は厳しく接しつつ、ある時は選択を受け入れ、その言葉を一人の人間として尊重する。
おそらくそうやって、自分をしっかり持って他者の選択をしっかり選別して受け入れる姿勢こそが、一人一人が生きていくのに大切なことのように思える。そんなことを教えてくれるのが、『ワイルド・アパッチ』という映画なのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。
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