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【創作】マルコ・ポーロの空中庭園【幻影堂書店にて】
※これまでの『幻影堂書店にて』
光一が書店の中を掃除しつつ、本棚の誰が書いたのか分からない四コマ漫画を読んでいると、カウンターのデスクを片付けていたノアが声をかけた。
「ひと休憩かい?」
「うん。何か急ぎ仕事あるかい?」
「いや、ないよ。随分変なものを読んでいるなと思って」
「まあ、面白いかと言われるとちょっと微妙だけど。本当にこのお店には色々な本があるなあと思って」
「そうだね。玉石混交というか」
ノアははたきを掛けながら、ふうと一息つくと、いたずらっぽく笑った。
「そうだ、以前君は、この本屋で一番高い本を聞いたね。じゃあ、クイズを出してみよう。この店で一番安い本は何かわかるかな」
「何だろう。聖書かな。ほら、人類史上のベストセラーと言われていた気がする。だから安くなるんじゃないかな」
「違うけど、発想はいいよ。正解はマルコ・ポーロの『東方見聞録』だ。
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大ベストセラーであり、とにかく異本が多い。うちの店としては、聖書は内容が決まっているから、結構需要があるんだけど、『東方見聞録』は怪しい異本、偽本が大量に持ち込まれるから、歴史上の価値は置いておいて、とにかく安くなるんだ。ほら、ここにね」
ノアが手をかざすと、店に並ぶ本棚にいくつか光る本が浮かび上がる。光一が近くの一冊を撮ると、そこには『東方見聞録補遺―空中庭園』とタイトルに書かれてあった。ノアは笑う。
「それは、安物の中では珍しい異本だね。まあ、後世の創作とされているけれど」
マルコ・ポーロは1254年、ヴェネツィア生まれと推測されている。代々続く商人の家に生まれ、父と叔父と共に、1271年に、アジアへの旅へと出発。ペルシャからシルクロードを辿って砂漠を超え、4年がかりで元に到着し、皇帝クビライ・ハンに謁見する。
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その後、クビライに能力を買われ、17年に渡って彼の宮廷で過ごすことになる。1291年、ようやく帰国を許可されると、1295年にヴェネツィアに帰ることができた。
その後、ヴェネツィアは、ライバルの交易都市ジェノヴァと戦争になり、参加したマルコは、捕虜となる。
牢獄の中で手持無沙汰になったマルコは、一緒にいた作家に自分が旅してきた内容を口述。それが『東方見聞録』として出版されると、爆発的な売れ行きに。当時のヨーロッパの人々にとって全く未知の場所だった東洋について詳細に描かれたその書物は、多くの写本・遺稿本が残る一大ベストセラーになった。
コロンブスも愛読し、「黄金の国」ジパングを見つけようとする等、15世紀の大航海時代にも影響を与えた。マルコ自身は、ヴェネツィアへ戻ると旅に出ることはもうなく、結婚して子供を設け、1324年、おそらくは70歳で死去している。
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「この本は、フィレンツェに残った写本『東方見聞録』についている付録だ。『東方見聞録』にあった、ある一章についての増補だよ。勿論、表の世界では流通していない。読んで御覧」
「ジパングの空中庭園について」という副題のあるこの本は、マルコ・ポーロが聞いた話として、第三章の黄金の国ジパングに行った人が見た「空中庭園」について書かれている。黄金の国の中心にその庭園はあり、強大な力を持つ王が、黄金の宮殿とは別に持っている宮殿の一部である。
それは、緑豊かな森に囲まれた美しい湖の上の空に浮かぶ、紙でできた建物である。その紙の上には、多くの植物、ブドウやリンゴが成る樹が生えており、そこを歩くのは、本当に空中を浮かんでいるような気分であり、まつりごとに疲れた王は、そこで憩うのだと言う。
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ジパングに渡ったその人は、実際にその空中庭園を見たのだと言う。そこには、色艶やかな絹の着物を着た人々が歩いている。その人との会話をマルコは記している。その人は問い掛ける。
「エメラルドがちりばめられたその国の宮殿で、私は多くの人と出会いました。その庭園は空の上、雲の中になり、私の身体はゆらゆらと揺られて、重さがないようだった。それは夢のようであっても、私は確かにそこにいた。そんな場所は確かにこの世にあるのです」
あなたもそう思いませんか」
「そう思います」
光一は、顔を上げた。気付くとそこは、夜の砂漠だった。
自分で声を発したように思えるが確信は持てない。店の外に連れ出されるのは、以前もあったので、声をかけた。
「マルスさん?」
丘陵の影から、人の大きさの白い竜が現れた。そしてその横には、書店の店主、クリスが立っている。竜が口を開いた。
「やあ」
「これはあなたの幻術ですね」
以前、森の中の廃墟にいた時も、マルスとカストルプがいた。どちらかの力によるものであり、おそらく、ここは本物の場所ではない。マルスは満足そうな声を出す。
「そうだよ、君が読んだ書物に、共鳴できるか実験していてね。クリス、ほらこの子の力は確かだろう」
「そのようだな」
クリスの言葉から、かすかな苛立ちのようなものが感じられ、二人はあまり仲が良くないのだなと感じた。光一は尋ねる。
「その力はどういうものですか」
マルスは尻尾を丸めながら、答える。
「君にもそのうち分かる。それは、ある種の偽りの欲望の力だ」
「偽り? 僕は何かの偽物ですか?」
光一の強い言葉に、クリスは少し微笑んで言った。
「君がさっき読んだ本は、『東方見聞録』が有名になった後、15世紀の大航海時代に何者かが書いたものだ。おそらくは、その場所は室町時代の日本。彼が言う「空中庭園」は、おそらくは、銀閣寺のような書院造のような建物だったと思われる。勿論、作者の妄想が入っているけれどね」
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「書き手はもしかしたら本当に日本に行ったのかもしれない。でも、そこは書かれたような場所ではなかったはず」
「そう、でもそれは書き手の中で、強い欲望があって何か書留められたものなのは確かなんだ。もしかすると、それはシルクロードの過酷な砂漠の旅でその人が観た、蜃気楼の幻のようなものだったのかもしれない。記憶がどこかで混濁しているのかもしれない。
でも、書いた人にとっては真実なのだ」
「内容が偽りでもですか」
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「現実の書物とは、そういう面がある。真実とは認められなかった欲望が、いや、多くの人に真実として必要とされなかった欲望が、現実の世界から砂の上の絵のように消えていく。
そうした欲望を集めるために、私はあの店を創った。もう一つの欲望の受け皿になるために。そう、『東方見聞録』のように、あらゆる欲望を受け止められる神話の器として」
「それは一つの幻影であり、ノアはそれの管理者ですね」
「そう」
「では僕も?」
その時、光が差し込み、光一は目をつぶる。再び目を開けると、手の中には、ブドウの絵が刻まれた金色のしおりがあった。
手にした途端、辺りが霧に包まれて混濁する。
その中で、マルスもまた、クリスとは別の幻術で、この世に自分の欲望を叶える場所を探している。それをクリスはあまりよく思っていないのだろうと光一は感じた。
そして、霧が濃くなるにしたがって、あの懐かしい書店の気配がする。ちくちくとしたしおりの手の感触を感じながら、このしおりや自分は、あの書店にとって何か外部のものなのだという違和感が光一の中で大きくなっていくのだった。
(続)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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