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記憶に残る小品-映画『この森で天使はバスを降りた』を巡る随想


 
 
【木曜日は映画の日】
 
 
芸術には歴史を変えるような大傑作でなくても、忘れ難い小品というものがあります。
 
1994年のアメリカ映画『この森で天使はバスを降りた』は、私にとって、そんな様々な意味で「ひっかかる」佳作です。
 



舞台はアメリカ・メイン州の、森が豊かな小さな村。刑務所から出所したパーシーは、再出発のために、一人でこの村に降り立ちます。
 

『この森で天使はバスを降りた』


偏屈な老女ハナが一人で切り盛りするダイナー「スピットファイア・グリル」(この作品の原題です)で働き始めるパーシー。そんな彼女の謎の過去に疑いの目を向ける村人たち。ハナの甥のネイハムは、特に警戒していますが、彼の妻のシェルビーは好意的に見ています。
 
そんな中、ハナが転倒で怪我をして、ダイナーを売りに出すことを決意します。




この作品の面白さは、閉鎖的な村の中で、女性たちのある種の共同体を作ることでしょう。
 
消せない過去を背負ったパーシー、一人息子がベトナム戦争で行方不明になったハナ、夫からモラハラを受けている主婦のシェルビー。
 
村びとたちから半ば無視され、物理的に、あるいは精神的に一人ぼっちで生きている彼女たちが、徐々に心を通わせていくのが、小さな事件を積み重ねて丁寧に描かれます。
 

『この森で天使はバスを降りた』
パーシー(左)とシェルビー(右)


監督のリー・デヴィッド・ズロトフはこの作品以外は映画の監督がない、テレビドラマのプロデューサー畑の人だったらしいですが、特に映像的な効果を出したりせず、効率的に物語を語るだけ。それが逆に好印象です。




この作品は元々、ハリウッドとは無縁の、小さなキリスト教系団体が製作した映画でした。インディーズのアメリカ映画の見本市であるサンダンス映画祭で上映され、好評を博したため、全米公開されたという経緯を辿っています。
 
もっとも公開されると、批評家からの評価は今ひとつで、口さがないある批評家は、この手の「頑固な老女が田舎でレストランを経営している」インディーズ映画はもう見飽きた、『哀しいカフェのバラード』、『バグダッド・カフェ』等ありふれている、という風に酷評しています。


『バグダッド・カフェ』再公開のチラシ


それはまあその通りとしか言いようがないですし、ちょっと人物が類型的な感じはあります。

特にシェルビーの夫のネイハムは、ドラマの展開上観客の憎悪を一手に引き受けるために創られた感が強く、もう少し彼の内面や交流を表す描写があれば、彼と対照的な女性たちの描写も深みを増したように思えます。それはあからさまに分かりやすい「森の番人」の造形も同様。
 
しかし、この作品には他の「地元のレストラン」映画、それこそ『バグダッド・カフェ』にもないような、興味深い点もあります。




一つは、女性たちの共同体が、外部の「書かれた物語」を吸収して創られていくこと。

「スピットファイア・グリル」を売ろうとするものの、当然ながら田舎のダイナーに買い手なんてつかない。そこで逆に、全米向けに「なぜダイナーを買いたいか」というエッセイコンテストを開催し、参加費としてひとり100ドルを払ってもらい、優勝者に無料でダイナーを譲る、といううまいアイデアをパーシーは出します。

大量に集まったエッセイを、夜の部屋で一つ一つ読んで話し合う、パーシー、ハナ、シェルビー。

全く結びつくはずの無かった、全く知らない他人の人生を「読む」ことで、ここ以外の多くの場所と人生を知り、身近な人や自分の過去と向き合う契機になっていく。暖かく人間らしい交流と同時に、この夜の部屋のイメージには、どこか神話的な感触があります。

匿名の物語を紡ぐ、三人の記憶の女神のような。


『この森で天使はバスを降りた』
ハナ(左)、シェルビー(中央)、パーシー(右)




そして、パーシーが、地元の若い男と会話する時の、神秘的な夜の森も魅力的です。

舞台になったアメリカ北部メイン州は、カナダに接した自然豊かな場所で、古くから林業が盛ん。そのため、小さくともニューイングランドの経済的中心地であり、フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争の激戦地にもなりました。

そうした古い歴史を含んだ風景が、物語を集める女性たちに、神秘と太古の表情を与えている。それがこの小品映画の、他にはない魅力のように思えるのです。


『この森で天使はバスを降りた』




それにしても、今となっては、90年代の初頭の、なんというか、穏やかな空気感を感じられる映画でもあります。

冷戦が終結し、アーカンソーという田舎から出てきた若いビル・クリントンが大統領になって、ここからITブームに沸くゼロ年代初頭まで、安定していた時期のアメリカ。

そして、考えるとベトナム戦争からまだ20年しか経っておらず、そこで傷ついた人たちは、人生に苦しみつつ、何かを変える最後のチャンスを賭けられた時でもある。

この映画は、デヴィッド・リンチのテレビシリーズ『ツイン・ピークス』と同時代でもあります。


『ツイン・ピークス』
オープニング


一方は心温まる再生の、もう一方は血と幻想に満ちた悪夢のファンタジーが、深い森の閉鎖的な町で繰り広げられる。

どちらも、ハリウッドから離れて、テレビ畑の独立したプロダクションに携わる人々によって手掛けられました。

70年代の伝統的な撮影所の崩壊からこちらも一段落がつき、テレビドラマ自体が円熟した技術を蓄積できていたからこそできた企画でもある。

そして、神話的な光景や血みどろの幻想を引き受けられるくらい、豊かな共同体のバックグラウンドがあったとも言えるでしょう。


『ツイン・ピークス』




この映画から30年近く経ち、多くのことが変わりました。

今なら、コンテストなどなくても、SNSやプラットフォームで支援者を集めて、匿名の言葉に触れることができるでしょう。

メイン州の西にある五大湖周辺の州は「ラストベルト(寂れた一帯)」と呼ばれて没落が激しくなり、大統領選挙を左右することになります。

この題材の物語を創りたいという人はいても、製作体制を含め、この映画の形態になるかどうか。

私がこの映画に惹かれたのは秀逸な邦題によることが大きいです。ファンタジックな邦題とちょっとイメージが違って実直なドラマなのですが、そのズレの魅力も含めて、レンタルビデオ屋でタイトルを眺めて観る映画を探していた時代を思い出させます。

様々な意味で、90年代の半ばという時代が刻印された作品ではありました。


『この森で天使はバスを降りた』




勿論私は、90年代は良かったなどと言うつもりは全くありません。

誰にでも、良い時代とそうでない時代があり、同じ時代でも場所によって変わり、誰かにとっての良い時代が、誰かにとっての悪い時代にもなる。

ただ、その中で不意に誰かにとって大事なイメージがでてくることがある。それはものすごい傑作である必要はない。




この佳作は、ドラマ上の瑕疵や引っかかりとなるビッグネームや伝説がない等、様々な点で、映画史に残っていく傑作とは言い難いです。

でも、しんとした夜の森に包まれて、部屋の中で他人の人生を「読む」女性たちという美しいイメージを残してくれただけでも、私にとっては大切な作品です。

そんなイメージを、少しでも多く集めることが、豊かな生に繋がるように思えるのです。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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