【創作】ナルキッソスの翼【幻影堂書店にて】
※これまでの『幻影堂書店にて』
光一が店を訪れると、ノアは立って本棚を整理しているところで、こっちを見てにっこりと微笑んだ。左眼に白い眼帯をしており、右眼がいつものように青々と輝いている。
「大丈夫かい?」
「ああこれは、痛みとかはないよ、大丈夫。この前恥ずかしいところをお見せしたね」
「いや、全然。君が無事ならいいんだ」
前回訪れた時、ノアは1920年代につくられた記憶のフォトグラムの映像を見て、そのまま倒れたのだった。彼女が長いこと眠っていたため、見守っていた光一もいつしか眠りに落ちた。そして、気付くと、再びこうやってこの店のドアを開けていたのだった。
壁には拳銃型の小さな映写機が掛かっていた。前回、カストルプが他のお店に行かなければいけないと言って立ち去る時、寄贈すると言って置いていってくれた。ノアは朗らかに頷く。
「うん、後から連絡が来たよ。これは、フィルムから磁器のテープ、電子データまで、あらゆる映像と音声を再生できる優れモノだから、この店に来る映像作品も、君と一緒に見ることができるよ。君が直してくれたおかげだね」
「僕は何もしていないよ」
「でも、君には何か力がある。それは、私も少しずつ分かってきている。あのフィルムを見て思い出すこと、思い出せないこともあること。以前も言ったように、君と別の場所で会っていることも」
その時、片眼で遠近感がとりづらいのか、背伸びして取ろうとした青い本が、誤って光一の足元に落ちた。光一が手に取ると、仄かに光るように思え、タイトルの文字が頭の中に入ってくる。
「ナルキッソスの翼?」
「ああ読めるんだね。君に反応したのかな。そうすると、中も読めるはず」
「これは?」
「シェイクスピアが書いた物語詩だ。ギリシア神話の、ナルキッソスをモチーフにした詩だよ」
ギリシア神話のナルキッソスは、川の神とニンフ(妖精)の息子。美しい少年となり、多くの女性や男性から好かれるが、見向きもしない。愛の女神アフロディーテを侮辱したため、彼を愛する者でも、彼を手に入れられない呪いをかけられる。
ニンフの一人、エコーは彼を愛していたが、女神ヘーラーの呪いで言われた言葉を繰り返すことしかできない。ナルキッソスはエコーを捨て、彼女は悲嘆のあまり、姿が消え、声だけが響く木霊となる。これを見た懲罰の神ネメシスは、ナルキッソスが自分しか愛せないよう呪いをかける。
ある時、ナルキッソスが澄んだ泉を見つけて覗き込むと、そこに美しい若者が立っていた。勿論、水面に映った彼自身の姿である。ナルキッソスはその姿に恋をして、泉から離れられなくなる。何日も語り掛け、やがて、その像に口づけしようとして、泉に落ちて水死する。
「ナルキッソスの最後は、病み衰えたとか色々なバージョンがあるけど、死んだその後には水仙の花が開いたのは一致しているね。欧米では水仙をナルシスと呼ぶよ」
「それってつまり、自己愛の「ナルシズム」の語源なわけだね」
「その通り。シェイクスピアは戯曲で知られているけど、実は物語詩も書いているんだ。『ヴィーナスとアドーニス』なんてギリシア神話に沿ったものもある。そんな彼が、脂ののった時期に書いた作品で、諸事情で発表されていない」
「面白そうだ」
「勿論、表の世界では流通していない。読んで御覧」
ストーリーは、元のギリシア神話に忠実だったが、年老いた盲目の預言者ティーレシアースが出てくるところが少し違っていた。
ティーレシアースはナルキッソスと対話し、彼に自己の美しさに気を付けるよう、周囲の人間に傲慢な物言いをしないよう教え諭す。ナルキッソスはその言葉を聞いて従う、聡明な若者だった。
しかし、あまりに彼が美しすぎたため、彼をめぐって嫉妬の渦が巻き起こり、気まぐれな神たちによって、原典と同様、彼は次々に呪いをかけられる。やがてティーレシアースの言葉を聞けなくなり、原典通り、泉の中に堕ちていく。最後はティーレシアースの嘆きの言葉で終わっている。
「印象的だね。君の言った話によると、ナルキッソスは川の神の子だから、「水に生まれて」水の中に帰ったとも言えるし、預言者が一人だけ、ナルキッソスに冷静なのも、彼の姿を見られないからだ。
あと、ナルキッソスが受けた罰は、自身がエコーと同様に、人と対話できない状態になることだったのも成程と思った。優れた作品と思ったけど、どうして発表されなかったんだろう」
「おそらくそれは、最後から二連目の、水死の描写があるからだと思う。実は、これは『ハムレット』で、ヒロインのオフィーリアが水死する場面を説明する王妃の台詞と酷似している。この作品は『ハムレット』の直前に書かれたので、同じ水死ということで、戯曲にも転用したんだろうね。
ところが、『ハムレット』の方が大ヒットしたため、こちらを出すことは出来ず、書き換えようとしているうちに、それを果たせなかった、ということじゃないかな」
「それにしても、イカロスっていう言葉が出てきたのはちょっと不思議な感じがした。これもギリシア神話だよね」
「そう。父と一緒に作った翼で空を飛んだが、太陽に近づきすぎて翼が溶け、海に落ちて死んだ。
興味深いね。片や神の域に達しようとして空を飛ぼうとした若者。片や自分の美しさのみに魅せられた若者。どちらも傲慢さにより、落下という結果を招く。そして、精神を病んだオフィーリアに描写が転用されるのは、示唆的だね」
「でも、シェイクスピアは、そこまで否定的ではない。自分が何者かを知らなければ、長生きできた、っていうのは、何というか、心に来たよ」
「それは、ある意味真実ではあるだろう。多くの人はそんなことを考えずとも生きられるのだから」
「それでも、僕たちは、自分が何者かを知ろうとする。そうだろう?」
ノアは、静かに微笑んで言った。
「そう、それは悪いことではないね。例えばこんな風にね」
ノアは、そう言って眼帯をとった。するとそこには真っ白い瞳があり、鏡となっていて、驚いている光一の像が映っていた。
「それは。。。」
「この前からこうなっている。面白いよ。鏡で自分の顔を見ると、無限に自分の像が見えるんだ」
「いや、笑い事じゃないだろう」
「でも、とても象徴的に思えないかい? 私は君を映す鏡。君は私を見ることで、君自身の姿を知ることができる。シェイクスピアの言葉を使えば、君の魂をこの中で探求する。私たちが生きて、他者と関わるとは、本当はそういうことなのかもしれない」
その時、本が光を発して宙に浮かぶ。閃光が瞬き、光一が目を開けると、カウンターの上に、金色のしおりが載っていた。
そこには、金色の翼が描かれていた。
「よかった。新しいしおりが出て来たね」
「君の、眼が。。。」
ノアは光一の言葉で、抽斗から手鏡を取り出して見つめる。ノアの左眼は、前と同様、赤い瞳に戻っていた。前よりも美しく、宝石の如く輝いているように、光一には思えた。
「元に戻ったね。視力もある。せっかく馴れて、楽しかったのにな。ちょっと残念」
光一は心からほっと溜息をついた。
「よかったよ。君の顔を見るたびに自分の顔を見るなんて、ぞっとするよ」
「確かに、君にとってはそうかもね。ずっと自分の姿を見続けるというのは、危険な状態なのかも。だから、私たちは、自分を探究する前に、他人の像を見るんだろうね」
「ナルキッソスやイカロスみたいにならないように?」
ノアは、微笑んで、金のしおりを壁に貼って言った。
「そう。自分たちが何者かを知るには、死の中に堕ちるのではなく、色々な他人の像を見て、エコーに耳を澄ませ、その中から時折、自分の鏡に映った像を見つけて集める方が、きっといい。
私たちがこうやってたくさんの本や芸術作品を体験しているのも、そういうことかもしれない。死なないで、自分を知るために、ね」
(続)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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