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【創作】孤島のドン・キホーテ【幻影堂書店にて】


 
※前回はこちら
 



 
光一が二度目にその場所を訪れたとき、ノアは、書棚のはたきをかけて、掃除をしていた。ゴスロリの黒いドレスがひらっと翻る。

「やあ、今日も、幻影堂書店に来たね」 

ノアは微笑むと、はたきを置いて、カウンターのポットから、茶色の液体をグラスに注いだ。
 
「はい、どうぞ。今日はだいぶ喉が渇いているようね」
 
「自分が、ここに来る前に何をしていたのか思い出せない。そう、前もそうだった。自分のことだけが、思い出せない」
 
「表の世界の君も、ここのことをそう感じているよ。大丈夫、ちゃんと戻れるから」
 
「それなら、僕は、どうしてここに来たんだろう」
 
ノアは、両手で頬杖をついて、眼を細める。赤と青の瞳が電灯の光を受けて、きらりと閃いた。
 
「それもそのうち君は気づく。いや、君がその答えを創り出すんだ。

人間は生まれてきたときに、なぜ自分がそこにいるのか分からないでいる。その理由は、自分が出会う様々な偶然によって、かたちづくられ、最終的にはその人の思い込みで決まるのさ」
 
「生きる理由とは、思い込みなのか?」
 
「いい意味でね。そうだな、今日もどこか好きな棚から本をとってごらん」




この前のシェイクスピアの旅行記の場所をうっすらと覚えていた。違う場所の本を取ろうと、手を伸ばして、一番上の棚から、薄い、臙脂色の表紙の本を取り出した。

ノアは、にやっと笑う。
 
「ああ、珍しいものを掴んだね。それは、セルバンテスの『孤島のドン・キホーテ』だ」
 
「『ドン・キホーテ』は知っている。小説を読み過ぎて頭のおかしくなった騎士ドン・キホーテが、ロバに乗って、きれいでもないお姫様のために風車に突進したりして冒険する話だろう」


『ドン・キホーテ』挿絵
ギュスターヴ・ドレ画


 
「そうだね、出版された17世紀当時から、滑稽小説として大人気だった。ただし、その本とは違う」
 
「この本は現実の歴史には存在しない」
 
「そう、セルバンテス本人が、本物の『ドン・キホーテ』を書く前に書いた習作だ。でも、本人は気に入らなかった。

書いた原稿も失くしてしまい、その後に書いた『ドン・キホーテ』の大ヒットで、自分の作品の経歴からも抹消してしまった。
 
でも、本人が失くしたと思い込んでいただけで、実はあったんだ。読んでごらん」
 
光一は、ページをめくった。




騎士ドン・キホーテは、ひょんなことから、海賊船に乗ることになり、海戦に参加する。砲戦によって、船は大破し、ドン・キホーテは、孤島に辿り着く。
 
緑豊かな、無人島で、何とか食料や水を確保して、ドン・キホーテは、意気揚々となる。だが、段々と一人で生き続けていることに、淋しさを覚えるようになる。
 
そして、ドン・キホーテは昔読んだ騎士道小説のことを思い出す。

自分がこんな孤島から脱出して、騎士として活躍して、スペイン中を旅してまわり、お姫様を救出する物語を夢想する。紙はないため、見つけた洞穴の壁に、棒を使って書いていく。
 
それから二十年後、探検隊が偶然島に上陸した。彼らが見つけたのは、生活の跡と、白骨の死体と、洞窟の中を埋め尽くす、解読できない、崩れた文字のような文様だった。




光一が目を上げると、いつの間にか、瞳から涙が零れ落ちていた。ノアは、すっとハンカチを取り出して、光一に差し出す。
 
 
「セルバンテスはね、船乗りだったことがあるんだよ」
 
ミゲル・デ・セルバンテスは、1547年、スペイン生まれ。1571年のオスマン・トルコとの「レパントの海戦」にも参加し、負傷して右腕を失っている。


ミゲル・デ・セルバンテス



その後何回か海戦に戦に参加するも、帰国途中に海賊に襲われ、アルジェで5年間の捕虜生活を送る。その後、ようやくスペインに戻った後、1605年に出版した『ドン・キホーテ』で、ようやく成功をつかむこととなる。




「船の上というのは、孤独なものだ。難破して海に投げ出されたり、誰もいない島に辿り着いたら、というのは、おそらく誰もが一度は思うことだったろう。

そんな、海の上での夢想を、素直に描いた、若書きの作品だ」
 
「どうして、気に入らなかったんだろう」
 
「それは、彼が後に付け加えた要素で分かるよ。何だと思う?」
 
「何だろう。海の旅。。スペイン中を旅するのは、洞窟に書いていた作品そのままだし。ロバ?」
 
「それもあるね。そう、自分以外の存在。ロバと何よりも、相棒のサンチョ・パンサだ。
 
現実の『ドン・キホーテ』があれほど人気になったのは、頭のおかしい騎士の傍らに、彼を支えて、時にはツッコむ常識人の存在がいたから。分かるかい? ドン・キホーテは、二人組だったからこそ、真の狂気に陥らずに済んだ。
 
二人組でいるからこそ、色々な人が寄ってきて、活気が生まれる。人間はそういうもの。
 
ほら、私たちだってそうじゃないかな。二人でこうやって話すからこそ、読んだ本について、深く考えることが出来る。
 
同じ孤島を舞台にした小説でも、『ロビンソン・クルーソー』には、相棒のフライデーが出て来たけど、『孤島のドン・キホーテ』は、一人きり。これがどんずまりになってしまった原因だろうね。

セルバンテスの遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの冒険』も二人組だ。最後まで、その形式を活用したんだね」

ノアは、ゆっくりと、人差し指を回して、説明した。




「でも、何だろう。僕はとても心を動かされてしまった。ここには、僕自身が何か感じるものがあった気がする。前の時よりも強く」
 
「それは、表の世界の君が何か関係しているかもしれない。
 
表の世界と、この世界の本も、また繋がっている。

表の世界の文学史に残る『ドン・キホーテ』は、まさにこの孤島に閉じ込められた作品の中のドン・キホーテが書いていた、洞窟の中の物語なのかもしれないね。
 
セルバンテスは、孤島で一人だったドン・キホーテと彼の夢想を救い出し、相棒を創り、滑稽な騎士として、別の世界に転生させた。

『ドン・キホーテ』の後編で、登場人物が、前編について言及するくらい、セルバンテスは、 そういった面に敏感だった。

世界は様々な面からできていて、物語がその面を繋いでいる。あるいは、表の世界の君も、別の世界が書いた誰かの物語の人物で、私たちもまた、誰かが書いた物語の中の一人かもしれないね。
 
そして、それらは繋がっているのだから、表の世界の君が感じたことが、この世界で本を読む君に反応する。更に今の君の反応が、表の世界の君も変えていくはずだ」
 
「そうかもしれない。僕は、そんな言葉を別の世界で聞いた。

君に、どこかで会った気がするんだ」
 
その言葉を聞くと、ノアは、寂しげに笑い、目を伏せた。
 
「そうかもしれないね。でも、それが分かる時は、まだ来ていないかもしれない。
 
それまでは、また、ここに来て、一緒に物語を辿りましょう。
 
また、雨の日にいらっしゃい」
 

 





(続)


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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