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美のつづれ織りが踊る -イヴ・サンローランの二つの映画について

 


芸術家の伝記映画は沢山あります。それらを観ていると、同じ人物をここまで違う感触で描けるのか、と感心することがあります。
 
フランスのデザイナー、イヴ・サンローランの二本の伝記映画は、偶然同じ2014年に制作されて、ほぼ同じ事実を描いているのに、対照的な印象を受けるという、興味深い現象を起こす映画です。




イヴ・サンローランは1936年、当時のフランス領アルジェリア生まれ。18歳の時にパリに移住し、服飾学校に通っていたところ、クリスチャン・ディオールに見出されてディオールに就職します。


若い頃のイヴ・サンローラン


 
1957年、ディオールが急逝すると、その跡を継いで、21歳でデザイナー主任に。前途洋々かと思われましたが、1960年アルジェリア戦争に徴兵され、神経衰弱のため入院。後年この体験による躁鬱病や薬物依存に苦しむことになります。
 
1961年、ディオールから独立すると、恋人のピエール・ベルジェをパートナーとして、「イヴ・サンローラン」のブランドを設立。
 
ユニセックスな、スモーキング・スーツ、過激なシースルードレス、更にモンドリアンやポップ・アート、マティス等絵画芸術も取り入れた、モードにして唯一無二のオートクチュール芸術を創りあげます。

 

女性用「スモーキング・スーツ」
イヴ自身が一番気に入っていたという


私生活では浮き沈みを繰り返し、1976年に復活を告げた「バレエ・リュス」コレクション以降はやや沈滞気味に。しかし、黒人モデルをいち早く見出したりと、柔軟な姿勢は変わらず。
 
2002年に引退し、2008年、71歳で死去。「イヴ・サンローラン」を世界的なラグジュアリーブランドに育てたピエール・ベルジェも、2017年に亡くなっています。




二つの伝記映画の経緯としては、まず、フランスで芸術性を高く評価されている監督、ベルトラン・ボネロが企画を進めていました。

しかし、その数か月後、別の監督シャルル・レスペールが、イヴ・サン・ローランの伝記映画を作ると発表。最終的に、レスペール側が、イヴ・サンローラン財団の公認を得て、コレクションの衣装等を自由に使えることになります。
 
しかし、そのおかげで、レスペール側は、財団が要求する制約にかなり縛られたらしく、ボネロ側は、衣装を一から手作りしなければいけなかったものの、比較的に自由に製作できました。レスペールの映画があるおかげで、余計な説明を省けたとも、ボネロは語っています。
 
最終的にレスペールの映画は、『イヴ・サンローラン』。

ボネロの映画は『SAINT LAURENT/サンローラン』という邦題で公開されています。


イヴ・サンローランの
モンドリアン・ルックのドレス




ボネロ版の映画の魅力は、一見無駄と思われる場面に時間がかけられていることです。



野卑で強烈な音楽が響く、陶酔的なクラブでのダンスシーン。イヴがドラッグに溺れて苦しむシーン、一人のブルジョワ女性を、よりユニセックスな格好に仕上げ立てて輝かせるシーン。
 
圧巻は、イヴが復活した1976年の「バレエ・リュス」オートクチュール・コレクションで、ランウェイを歩くモデルたちを、横移動で捉えるシーンでしょう。
 
色鮮やかなドレスが翻る凄絶な美が、スプリット・スクリーンも使って、縦横無尽に画面に炸裂する。ずっとこの時間に浸っていたいと思わせる魔力があります。
 
そして、そういった物語が停滞する時間によって、描かれているはずのイヴの私生活が不明瞭にぼやけて、イヴの存在が美の前で儚く消えていくような感触も出てくる。そんな魅力的な映画なのです。


『SAINT LAURENT/サンローラン』
ボネロ版でイヴを演じる
ギャスパー・ウリエル(中央)は
似ているだけでなく、神秘的なオーラがある




二つの映画は、同じ生涯を描いただけあって、似通ったところも結構出てきます。特に60年代後半以降のクラブシーンや、イヴとベルジェの、マラケシュ旅行シーン。そしてクライマックスが、1976年の復活のショーのランウェイなことも。
 
しかし、ボネロ版と違って、レスペール版は全編がピエール・ベルジェのナレーションで語られます。

ある意味、イヴ・サンローランというブランドを創りあげた、ベルジェの回顧録な感じがするのです。



 
ストーリーは、才能があるけど小市民的な母親たちに甘やかされて育った、何もできないイヴを、恋仲になったベルジェが長年に渡って献身的に支えるというもの。
 
ボネロ版と違って、50年代のイヴとベルジェの出会いから、60年代が中心です。

ボネロ版のイヴが、どこかふてぶてしくも、神秘的な雰囲気があったのと違って、レスペール版のイヴは、線が細く、時が経っても、どこか駄々っ子な部分があります。それを、ベルジェが優しく包み込む。


『イヴ・サンローラン』
左:ベルジェ(ギヨーム・ガリエンヌ)
右:イヴ(ピエール・ニネ)
やや線の細いイヴと、自信に満ちたベルジェ


 色々な意味で、高級ゴシップ雑誌みたいな感触です。誰かが出てくる度に「あれは○○さんです」と、ご丁寧に毎回有名人を紹介してくれるのも分かりやすい。
 
ボネロ版と違い、出てくる男たちがみんな、シミ一つない、異様にすべすべな肌なのも、気になります。
 
ダンス場面でも控えめな小粋なスイング・ジャズに、全編に流れる瀟洒なピアノとストリングスの音楽。
 
そうしたことも併せて、これは、イヴ・サンローラン財団が自分の高級顧客向けに作った、プロ―モーションフィルムと言った方がよいのでしょう。




では、レスペール版が悪いかというと、個人的にあまり嫌いになれないのが本音です。
 
レスペール版で、ベルジェは、自分の母親は厳格な教師で、自分は家出してパリに出たと話します。


恐らくは60年代後半頃の
ベルジェ(左)とサンローラン(右)


調べると、彼の両親は、社会主義者レオン・ブルムの元で活動した無政府主義者でもあったとのこと。母親が優しく、裕福で温厚なプチブル家庭出身のイヴとは真逆です。
 
そんな反骨の男ベルジェの、自身が創りあげたブランドという帝国をこう染め上げたいという意志が見えてきて、興味深いのです。
 
大衆が求めるものへの嗅覚の鋭さと、ビジネスの闘争場面での透徹した強さは、両親譲りと言うと、言い過ぎでしょうか。
 
つまり、こういうことなのでしょう。
 
ボネロ版は、イヴ・サンローランの芸術の中に潜むエネルギーを、イヴの生涯を使って、画面に立ち上げた映画。

レスペール版は、多くの大衆(とベルジェ)が望む、ブランドの中心としてこうあってほしい芸術家像を、イヴの生涯を使って、画面に立ち上げた映画なのだ、と。




私は、映画としてはボネロ版が好きですが、どちらがイヴをより忠実に描いた、とは言いません。
 
なぜなら、愛する人であろうと、人は誰かをある限られた面からしか、見ることができないのですから。
 
寧ろ、この対照的な、二本の映画があることが、イヴの芸術を補完している気がします。


昨年日本で開かれた『イヴ・サンローラン展』での
黒を基調とした革新的なドレス




イヴ自身、二つの顔があります。
 
ディオールの後を引き継ぎつつ、ユニセックスで過激なファッション等、ある意味時代が求める進化を、素直にモードにもたらした「正統派」なデザイナー像の側面。
 
そして、東方美術、モンドリアン、マティス、バレエ・リュス等、当時は時代遅れだった美を、そのまま取り入れることによって、彼個人の欲望を、ドレスの上に顕現させた、不思議なアーティストとしての側面。
 
そうしたイヴの二つの力は、服から広がりだして、「イヴ・サンローラン」というイコンをかたどる。そして、二つの対照的な映画にまで、流れ込んでいったと言えるかもしれません。


昨年の『イヴ・サンローラン展』での
スペインやモロッコにインスパイアされた
エキゾチックなドレス


きっと、私たちは、私的な部分だけでなく、公的な面でも、そうした様々な力によって、色々な姿に変わりながら、生きていくのでしょう。
 
そんな、多様な力のつづれ織りのような人生を染める美の一つを創りあげた、イヴ・サンローラン。
 
彼の人物像を含めたその作品群を見直しつつそんなことを考えてみるのも、未知の美の発見に繋がるのかもしれません。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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