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風を感じるワルツ -チャイコフスキー『弦楽セレナーデ』の魅力

  
【金曜日は音楽の日】
 
 
誰もが聞いたことのある、分かりやすい旋律のクラシック音楽は、案外限られています。
 
チャイコフスキーの弦楽セレナーデハ長調(作品48)は、多分ある世代には「派遣会社のテレビCMのBGM」で通じるかと思う有名な旋律が含まれています。
 
しかし、それだけにとどまらない、全編に多様な魅力がある、私の大好きな作品です。





この楽曲は、弦楽オーケストラ、つまり金管楽器や打楽器抜きで、ヴァイオリンやヴィオラ、チェロ、コントラバス等によって演奏する曲です。
 
第一楽章は、分厚い弦の合奏から始まります。ベートーヴェン『運命』にも近い、「ジャン、ジャン、ジャン」という分かりやすいメロディです。

荘厳にもできるし、悲壮感たっぷりに、もっと言って滑稽にも演奏できるシンプルさで、CMやジングルにもなる部分です。
 
その後、段々と熱を帯びて、親しみやすいメロディに、ピチカートも交えて華麗に展開すると、冒頭の和音に戻ってインパクト強く終わります。



第二楽章はワルツ。こちらも流麗且つ、柔らかさも感じるメロディです。

トルストイ『戦争と平和』のロマノフ朝の舞踏会では、こんな曲が流れたのではとも感じる。シャンデリアの煌めきも含むような華やかさがあります。



第三楽章は、静かに始まりつつ、じわじわと盛り上がります。もったりとした三連符も交えた、不思議な浮遊感。「エレジー」と題されていますが、暗くはなく、たっぷりとした空間の中をどこか哀愁を帯びた旋律が漂い、静かに消えるように終わります。
 
第四楽章は、曙を感じさせる仄かに暖かいパッセージから始まります。

それが途切れると、細かく刻むヴァイオリンから一気に駆け上がるように盛り上がり、ワルツ風のメロディや、ピチカート等、今までの進行があぶくのように浮かびます。
 
そして、全てを統合するように、冒頭のメロディに戻って、華麗に加速してフィナーレを迎えます。




ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840年ロシア生まれ。幼い頃はオペラに夢中になり、法律学校を卒業して下級官僚になるものの、音楽家の道を諦められず、仕事をしながら、音楽学校に通います。大作曲家の中では、かなり遅いスタートです。


チャイコフスキー


 
その後仕事を辞めて音楽に一本化し、作曲や評論等、多彩な活動を始めます。1875年に、代表作の一つ『ピアノ協奏曲第一番』を発表し、その翌年には、富豪のフォン・メック夫人から資金援助を受けるようになり、生活も地位も安定するようになります。
 
バレエ『白鳥の湖』やオペラ『エヴゲニー・オネーギン』等の名作が生まれた後の、円熟した1880年に『弦楽セレナーデ』は作曲されています。




チャイコフスキーの魅力は、華やかさの中にどこか、いなたい部分があることだと思っています。
 
彼は『弦楽セレナーデ』や『ピアノ協奏曲第一番』の冒頭のように、分かりやすい旋律やテクニックで、聴き手を圧倒することができます。その意味では、ベートーヴェンや、ワーグナーの後継者的な資質を持っている。
 
分かりやすく観客を圧倒して感動させることは、低く見られがちですが、決して誰にでも出来ることではありません。ベートーヴェンの賛美者は山ほどいても、その資質がある人は、かなり限られていたわけですから。
 
『弦楽セレナーデ』で「ドレミファソラシド」をそのまま使って、違和感なく盛り上がれるのは、余人にはなかなかできない芸当でしょう。





ただ、チャイコフスキーには、その圧倒度合いが濃密すぎて、カリカチュアの域に達しているようなところがあります。

それも、ワーグナーのような陶酔感や持続する崇高さというより、刹那的な快感と熱狂が交互に組み合わさって繋がる感覚です。
 
おそらくそれゆえに、彼はバレエと相性がいいのでしょう。ストーリーの整合性より、華やかで踊りに合う部分をつぎはぎしなければいけないバレエは、印象的なサワリを繋げられる彼の資質に合っている気がします。
 
チャイコフスキーは『弦楽セレナーデ』のピチカートや、『くるみ割り人形』のように、大音響だけではない可憐なメロディを紡げる名手でもあり、本質的には「踊れる音楽」の作曲家なのでしょう。





こうした資質の上に、モチーフとしてのロシア民謡が混ざることで、泥臭く、こってりと濃厚な音楽が出来上がります。

華やかだけど、洗練というより野卑な単純さと色彩感がある。民謡的だけど、郷愁よりも、目の前の踊りに熱狂するパワーがある。
 
それは、香水と汗と土の香りが混じって、こちらに迫ってくる舞踊。『弦楽セレナーデ』の第二楽章はそんな大地の息吹を感じられる、チャイコフスキーの特色が良く出た、美しい楽章です。
 
『弦楽セレナーデ』は、バレエや交響曲第六番『悲愴』や『ピアノ協奏曲第一番』ほどポピュラーではないですが、決して遜色のない名曲だと思っています。




この曲の演奏は、カラヤンであったりとか、割と多くの指揮者が、思い入れたっぷりに、第一楽章の最初を奏でる傾向があるように思われます。
 
何せ下手をすると滑稽な感じにもなりかねないため、荘厳な調子にする方がやりやすい。勢い、全曲が重たく感じられるところがあります。
 
そんな印象が変わったのが、私は最近知った、ソビエトの指揮者キリル・コンドラシンによる、ソビエト国立交響楽団の演奏です。




 
第一楽章から、快速なテンポでざくざくと弦を刻んでいきます。それでいて、リズム感が良く、決して急かされているようには感じません。ワルツだけではなく、第一楽章も舞踏会で踊るための音楽なんだ、と初めて思えた演奏です。
 
第二楽章のワルツは、濃厚な響きの中から、これしかない、というテンポで明朗に紡がれます。まさに、古の舞踏会ではこんなテンポで演奏されていたように思えます。
 
ソビエトの指揮者の中では、帝王ムラヴィンスキーの影に隠れて、地味な巨匠の感があるコンドラシンですが、多くの優れた録音を残しており、この曲の肩ひじ張らない名演奏だと思います。




そんな演奏の、この曲を聴いていると、踊りながら、草原を吹き抜ける草の匂いを感じているような気分になります。
 
音楽は空気を媒介して初めて伝わるものであり、その空気の味や匂いを生み出せるのは、分かりやすい旋律のある音楽と同じくらい限られた、濃密さと美に彩られた作品です。『弦楽セレナーデ』は、そんな音楽の一つのように思えるのです。



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