優雅であでやかな踊り -ボッティチェリの絵画を巡る随想
【月曜日は絵画の日】
有名な絵画でも、改めてよく見ると、不思議な面白さを秘めていることがあります。その画家の、他の作品ではなく、なぜこの作品が有名になり、残ったのかと考えると、作り手や時代のエッセンスも見えてきたりします。
『ヴィーナスの誕生』や『春(プリマヴェーラ)』で有名なルネサンスの画家ボッティチェリは、美術史上に残る華やかなマスターピースを残した偉大な画家なのは間違いありません。そして、様々な意味で、代表作と後年の落差を考えさせられる画家でもあります。
サンドロ・ボッティチェリは、1445年(44年説あり)イタリア、フィレンツェ生まれ。ダヴィンチは彼より7歳年下で、ミケランジェロは31歳年下、ラファエロは39歳年下ですから、初期ルネサンスと、三人に代表される最盛期のルネサンスの、中間の人になります。
病気がちで内向的な少年時代を過ごした後、優美な女性像で知られる画家、フィリッポ・リッピの工房で修業します。その後リッピが亡くなると独立。次々に作品を手掛けていきます。
折しも、フィレンツェを支配するメディチ家の当主は、『豪華王』と呼ばれ、知略に富んだ僭主で、芸術家たちのパトロンでもあった、ロレンツォ・デ・メディチ。
フィレンツェ共和国最盛期を治めた彼の庇護の下、ボッティチェリは次々に傑作を手掛けます。『プリマヴェーラ』は1477年、『ヴィーナスの誕生』は1485年と、脂の乗り切った時期の傑作でした。
しかし、1492年にロレンツォが亡くなると、ボッティチェリの運命も暗転します。
フィレンツェでは狂信的な怪僧、サヴォナローラが力をつけます。数々の予言を的中させて民衆の支持を得ると、清貧思想と堕落した生活を過激に糾弾する神権政治を行います。「虚飾を焼き捨て神に贖罪すべし」との通達により、多くの貴重な芸術作品が焼却されました。
そして、ボッティチェリ自身の作風も、中期とは見違える、謎めいた、秘教的な作品になっていきます。
サヴォナローラによる圧政はやがて民衆の反発を招き、1498年に火刑に処されます。
ミケランジェロの弟子でルネサンスの芸術家たちの伝記を書いたジョルジョ・ヴァザーリに依れば、ボッティチェリは、サヴォナローラの死以降、晩年は貧困に苦しみ、不遇のうちに、66歳で亡くなったとのことです。
中期のボッティチェリの特徴は、一言で言えば、ハイブリッドな優美さです。
鼻筋の通った美男美女は、師匠のリッピの美人画の特徴を受け継いでいます。そこに、『プリマヴェーラ』の木々に顕著な、克明な自然描写(少しウッチェロを思わせます)。そして、人物を主体にしつつ背景から浮かない、ナチュラルな遠近法の緊密な構図の良さ等、幻想とリアルのバランスが素晴らしい。
彼が聖書の場面だけでなく、古代ギリシア神話の神々を描いたのは、新プラトン主義と言われる、フィレンツェの文芸復興に影響を受けていたと言われています。そういう意味で、中世の堅い肖像と違う、太古の感触と同時に、リアルな身振りの人物像がある。『プリマヴェーラ』は、まさにそんな「ポーズ」の祭典でしょう。
また、『ヴィーナスの誕生』の、真ん中の人物の両脇に人が並ぶという構図が、洗礼を受けるキリスト像の構図を換骨奪胎しているのは、つとに指摘されるところ。つまり、様々な要素をハイブリッドに掛け合わせてできた、美のコラージュでもあり、当時の最先端の絵画術の、最良の部分を掬い上げたものでしょう。
しかしそう考えると、ボッティチェリの晩年の作品はやはり不可思議なものに見えます。
例えば、『神秘の降誕』は、優美さとは程遠い、不安をあおるような人物の旋回の構図に、碑文と、上部と下部に別れた異様な構図。中世的とも違う、何か遠近感が狂ってしまったような、異様な作品です。一体何があったのか。
ヴァザーリの伝記では、ボッティチェリ自身も狂信的なサヴォナローラ信者であり、自身の絵を焼き捨て、晩年は2本の杖をつかないと歩けないほど衰えたと書かれています。もっとも、この伝記には信憑性に欠ける記述も多く、そもそもヴァザーリは生前のボッティチェリに会ったことはありません。
先日亡くなった高階秀爾氏が名著『ルネッサンスの光と闇』で書いているように、サヴォナローラ派以外にも仕事を受けていたらしく、狂信的だったのは同じく画家だった兄だったと現在では言われています。
しかし、サヴォナローラの思想や民衆の動向に無関心でなかったのは、あまりにも変わってしまった絵が雄弁に示しています。
そして、ヴァザーリが記すようなイメージが、当時の人々に流布していたとも言えるのでしょう。
扇動者が力をつけるのは、その扇動に共感する民衆がいるからというのは、歴史や昨今の情勢を見るまでもなく明らかです。ロレンツォの元で華美と豪奢な生活を極めたフィレンツェの中、表向きは安定した暮らしから、何か落日の気配を感じ取っていた人たちがいたということ。それが、ロレンツォの死と共に、一気に噴出した。
ボッティチェリが残した傑作群は、経済、人文学、芸術が発展したフィレンツェ以外では生まれ得ないものでした。と同時に、この街の最盛期と共に没してしまったという、イメージがあまりにも強かったのでしょう。
年下のダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロは、フィレンツェで力を付けながら、決して留まることなく、ローマに向かったり、北イタリアを放浪したりして、自分の芸術を様々な地域の人々との折衝で広げていった。そうした意味でも、ボッティチェリの晩年は苦しいものでした。
しかし、それでもなお、中期の傑作群は、フィレンツェの絵画だけでなく、絵画史上に残る印象的な作品です。
古代ギリシアと、キリスト教と、中世美術がこれほどまでに難なく同居し、それでいて、印象的なポーズや人物像で刻まれるのは、ダ・ヴィンチたちでもなかなか到達できなかったレベルです。それは、彼の絵画の、現在の知名度でも分かります。躍動感があり、華やかな踊りを切り取ったような、そんなあでやかさにも満ちています。
つまるところ、ルネサンスとは、人間中心とか、中世から脱したとかいう意味ではなく、様々な文化を自由に繋ぎ合わせて、新しい美を生み出すということなのかもしれない。
だとすれば、ボッティチェリはまさにルネサンスという変化に満ちた青春を生きた天才であり、古い文化やインターネット、AI等の新しい文化が混じる現代に見ると、更なる発見があるように思えるのです。
今回はここまで。
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今日も明日も
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善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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