甘美な青春を踊る -ベルトルッチの映画『革命前夜』の魅力
【木曜日は映画の日】
青春とは、取り戻せない故に甘い時間です。
イタリアの監督ベルナルド・ベルトルッチの初期の映画『革命前夜』は、そんな甘美な時間を閉じ込められた稀有な映画です。
舞台は1962年のイタリア、パルマ。裕福な青年ファブリツィオは、マルクス主義に傾倒し、ブルジョワの婚約者との婚約解消を考えます。そんな彼は、貧しい労働者階級の友人アゴスティーノの葬儀の際、久しぶりに会った叔母のジーナと話し、恋仲になります。。
監督のベルナルド・ベルトルッチは、1941年生まれ。父親は詩人で、15歳で詩集を出版し、文学賞を受賞し、やはり詩人・映画監督のパゾリーニに強い影響を受け、彼の原案で21歳の時に長編映画第一作『殺し』でデビュー。早熟の天才児でした。
『革命前夜』は、1964年、23歳の時の長編第二作目です。彼は後に、『ラスト・エンペラー』(1987年)でアカデミー賞を受賞するに至っています。
『革命前夜』は、一言で言えば、フランスのヌーヴェルヴァーグに強く影響された青春映画です。
ヌーヴェルヴァーグ、というか時代的に、『勝手にしやがれ』~『女と男のいる舗道』くらいまでの、初期ゴダールに影響を受けたもの。既存の因習に囚われない、破格の映画文法があります。
例えば、アゴスティーノが自転車の曲芸乗りを披露する矢継ぎ早のモンタージュや、内省的なナレーションに、走る主人公のぶつぎれの映像や町の映像が被さる冒頭。そして、ジーナと二人でいる時、白黒映画にカラーパートが挿入される唐突感。
全く説明をせずに、素早く消えては疾走するその感覚は、その後様々な映画技法が出てきた後でも瑞々しく、本家のヌーヴェルヴァーグよりヌーヴェルヴァーグらしいとすら言えます。
そして、こうした文法を従えつつ、この映画が素晴らしいのは、青春の恋愛映画として甘美な時間が流れているからです。
年上の叔母との恋愛。一応スタンダールの『パルムの僧院』を下敷きにしていますが、ファブリツィオは、スタンダールの方の主人公ファブリスのように、叔母を振り回すわけではありません。
ベルトルッチの自伝的なところもある話らしいのですが、もっと普遍的でありきたりな、若い時の、年上の存在との恋愛と考えてよいでしょう。
この二人でいる場面が、とにかく美しい。
暑い真夏の街でジーナ叔母さんの買い物に付き合ったり、教会の裏の鐘楼で二人きりで村の角を見下ろしたり、街外れをぶらついたり。そして、オペラハウスの廊下での対話。
物凄く濃密というか、ここまでどきどきする二人の場面が続くのは、なかなかないような気がします。デートに向いている映画かどうかは分かりませんが、魅力的なデートが長く続く逸品映画だと思っています。
なぜこんなにも、二人でいることが甘美なのか。それは、役者の選択と音楽と、カメラワーク、つまりは演出によるものです。
ジーナ役のアドリアーナ・アスティは、ショートの黒髪に、丸く大きく開いた瞳、大きく開く口元が、親しみやすい色香と共にどこか魔女のような神秘をも醸しています。
ファブリツィオ役のフランチェスコ・バリッリは、ハンサムでありつつ、美青年というよりも、朴訥とした真面目さと素直さを持っています。
主演の二人とも、スター俳優のような華やかさがあるわけではないけど、清廉な美しさがあり、少し神経質な会話の面白さと併せて、べたつかない甘さがあります。
こんな二人の背後には必ず音楽があります。パルマの夏の街を買い物する時、少し地味な二人を砂糖でコーティングするかのような「ボンジョールノ、ボンジョールノ」というコーラス付きの、甘いポップス。
そして、二人がダンスする時の、カンツォーネというか、大仰なイタリアン・ポップスのバラード。
「僕の人生は今、君だけのもの、僕の運命は永久に君の運命」と壮麗に歌い上げる、多分後世には残らないタイプのヒット曲に乗り、二人の極端なアップの長回しが続きます。
時々カメラのピントが甘くなるくらい動く、陶酔的に抱き合う二人の顔を捉えたこの場面は、堪え様もなく美しい。
普通のダンス場面は、動き全体を捉えるために、引きで二人の肢体を捉えます。しかしここでは顔のアップの長回しになることで、完全に二人だけの世界になり、しかも状況が掴みづらくなるため、観客は画面に引き込まれることになる。見事なカメラワークです。
ヴィヴィッドな演出により、愛する人との、こんな時間が永遠に続けばいい、と願うあの恋の陶酔を思い出させるような、刹那的で、美しい場面になっているのです。
私がこの作品を好きなのは、スタイリッシュな場面よりも、どちらかというとこうしたベタな場面で、少し外したような勢いのある演出があるからかもしれません。
ベルトルッチは、ダンスを捉える名手であり、後の『暗殺の森』では、女性同士でダンスホールの群衆の中で踊る倒錯的なダンスシーンもあります。
しかし、非常に審美的で、そこには物語的に隠された意味があり、『革命前夜』ほど無邪気に陶酔感を味わえる場面ではなくなっています。
それはベルトルッチのフィルモグラフィにも言えます。『革命前夜』の無邪気な時間は、その後、この作品に見え隠れしていた「政治」と「性」の季節にとって代わられます。
『革命前夜』は、ベルトルッチ自身の青春でもあり、あのどきどきするデートは、変わる前の初々しさと緊張感があるゆえに、甘酸っぱいものとなったのでしょう。
そんな状態を要約するのは、冒頭のエピグラフです。
革命は起こった後に、初めて革命だと気付くものです。
とすれば、革命前夜もまた、その夜を過ぎた後に甘美な時だったと気付く時間、つまりは青春なのでしょう。
青春を今生きている人たちは、自分たちの状態に気づかない。私たちの多くは、そんな自分が変わる前の時間を、後から思い出し、再体験する。
後から思い出す故に、人は甘美さを味わう。
この映画は、そんな人生の甘美さと若さの追体験を、今でも観る者に与えてくれます。こうした作品を体験する度に、私たちは自分自身の人生をも取り戻していくのでしょう。
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