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時の流れに手で触れる -映画『コッポラの胡蝶の夢』の美しさ


 
 
【木曜日は映画の日】
 
 
映画の魅力の一つに、「時」を自由に切り貼りできることがあります。勿論、文学や音楽でもその「時」は感じられるけど、目の前でイメージが変化していくことは、何よりも「時」を強く感じさせます。
 
フランシス・フォード・コッポラの2007年の映画『コッポラの胡蝶の夢』は、そんな時の感触を見事に捉えた傑作です。


『コッポラの胡蝶の夢』




1938年ルーマニアの首都、ブカレスト。年老いた言語学者ドミニクは、自分の言語学体系を完成させられず、昔愛した恋人も忘れられない、後悔と虚無に満ちた日々を過ごしています。
 
ある日、彼は雷に打たれ、病院に運ばれます。奇跡的に一命をとりとめると、彼の肉体は若返り、しかもあらゆる言語を習得できる特殊な能力を身につけていました。
 
彼の能力に関心を持つナチスの手から逃れて各地を放浪するうちに、かつての恋人にそっくりのヴェロニカに出会います。
 
古いインドの言語サンスクリット語を操り、太古の記憶を持つ彼女と共に、言語の起源へと遡る、究極の探求へと足を踏み入れるドミニクでしたが。。。


『コッポラの胡蝶の夢』
左:ドミニク(ティム・ロス)
右:ヴェロニカ(アレクサンドル・マリア・ララ)


原作はルーマニアの特異な宗教学者ミルチャ・エリアーデの小説。世界各地の神話を研究し、8つの言語を操ったという彼にふさわしい物語。そしてこの映画で探求されるのは「時を遡る」という行為です。
 
雷によって若返るドミニク、それによって自分の人生とかつての恋人をも取り戻す。

勿論その人生と恋人は、過去の存在とは似ているようで違います。そこに、人類の「時」そのものを巡る物語が絡んでくる。様々なレベルで「時」が人間にどのような力を与えるかを探究しているのです。
 
その道は何度も畝っては迂回し、「時」があらゆる場所に力を及ぼしていくことを、私たちは体感します。それは邦題にもなっている「胡蝶の夢」の故事にも関わってきて、見事なラストへと繋がっていくのです。


『コッポラの胡蝶の夢』




そんな「時」を感じるために大事なのは、細部のリアリティです。若返るというファンタジーを成り立たせるために、物語のリアルが必要になるのです。
 
例えば主役のティム・ロスを始めとする老けメイクの見事さ。30年代の衣装や、部屋の内装といった美術、そして「太古の人類の未知の言語」という訳がわからないものを、異様に生々しく響かせる芸術指導。
 

『コッポラの胡蝶の夢』
年老いたドミニク(ティム・ロス)


こうした「リアルな幻影」を創り出す部分がしっかりしているからこそ、私達は「時」に手で触れたような実感を覚えることができます。是非、冒頭の多くの時計の音が精妙に組み合わさる繊細な音響にも耳を傾けて、その実感を掴んでいただければ。
 
空虚なCGやこけおどしの爆発シーンで観客の興味を繋ぎ留めたりしない。優れた俳優、優れた美術やメイク、美しく輝きつつも決して一枚の絵として自己主張しないカメラに、ストレートに紡がれるカットで、きっちりとストーリーを語る。
 
映画としての栄養とうま味がいっぱいになった、最高の料理人が創った滋味あふれる野菜スープのような、逸品映画なのです。




そもそもコッポラの映画自体、主人公が彷徨する中で「時」を感じる映画とも言えます。
 
初期の秀作『雨の中の女』や『カンバセーション 盗聴』のように、放浪して外界に翻弄される中で露呈してくる過去。

あるいは『ゴッドファーザー』の年代記でも、「時」の経過が如何にファミリーに消えない痕跡をもたらすかを追求しているのは、『PartⅡ』の二つの「時」の見事な交錯からも見て取れます。
 

『ゴッドファーザー PartⅡ』


そして何と言っても『地獄の黙示録』。
 
ベトナム戦争時の東南アジアの川を、規律に違反した大佐の「王国」に辿り着くまで遡行していくうちに、当初の目的は消え、戦争の惨禍すら超え、最早人類の原初まで遡るかのような時を超えた異界への旅となる。
 
そんなメガロマニアックな大伽藍を、丁寧なカットの積み重ねで築き上げるのが、コッポラの特徴と言えます。


『地獄の黙示録』


彼は例えば盟友のスコセッシのように、ディカプリオ級のメガスターを起用しない。そして製作全般を助ける妻のエレノア、父親で音楽家のカーマイン・コッポラを始めとする家族ぐるみで、自らの会社「アメリカン・ゾエトロープ」で製作する。時折、娘のソフィアや、他の監督たちの製作を行いつつ。
 
そうした部分に、映画の伝統をしっかりと受け継いで、地に足を着けて「正統派な映画」を創ろうとする良識を感じます。そういえば、『胡蝶の夢』はよくある映画のように本編後5分もクレジットが続くのではなく、古いハリウッド映画のように「The End」の字幕のみで終わります。これはコッポラの強い要請だったとのこと。
 
もしかすると、「時を探究してその痕跡を追う」という彼の映画の物語自体が、あらゆる「時」を保存して味わうことを欲望してきた、映像や映画の原初のロマンに忠実と言えるのかもしれません。


『コッポラの胡蝶の夢』




そんなコッポラも86年、最愛の長男ジャン・カルロを事故で失い、88年に彼に捧げた『タッカー』を傑作に仕上げるも、90年代は作品の質は低調な時期を過ごします。

プロデュースを増やし、ワイナリーを経営して、映画製作以上に大成功すると、より原点に戻った映画作りを志向します。それが2007年の『コッポラの胡蝶の夢』です。
 
ほぼ全編がルーマニア・ロケで、優秀な撮影監督も含めたスタッフは現地の若い人たちでした。そんな異国と若い血を導入することで彼自身が、主人公のドミニクのように若返った。映画の原題『Youth Without Youth』の通り、「年老いてなお若い」映画になったということでしょう。


『コッポラの胡蝶の夢』




コッポラの2024年の最新作は『メガロポリス』という、長年温めていた超大作で、ワイナリーを売却してまで製作した作品です。
 

『メガロポリス』


廃墟になった街をユートピアに再建しようとする建築家が主人公で、観た人からは一様に「訳が分からない」「退屈」という言葉が出て、既に全米では製作費回収不可能な、記録的な不入り。期待は高まります。
 
だってコッポラは、三度破産を経験し、その度に蘇ってきた人、そして誇大妄想そのものの「時の探求」を、常にスクリーンにぶちまけてきた人です。

退屈? 独りよがり? 大変素晴らしい。「時」を体感するとは、退屈さも含めて私たちの身体に直接訴えかけることであり、そんな特別な作品を創れるのは、ごく限られた芸術家だけなのですから。
 
そんな「時」に直に触れる、通常ではありえない感覚を味わえるのが『コッポラの胡蝶の夢』です。是非機会がありましたら、体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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