見出し画像

【創作】水霊の碁 第7話(終) 夢の花


時は元禄、華の江戸

これは、無鉄砲で前向きな男、
石田策侑(弥之吉)と
囲碁の天才にして後の名人
本因坊道知(神谷長之助)の
芸と力、長年の友情と挫折をめぐる
物語である


 
 
※前回はこちら
 




第7話 夢の花(終)


7-1


 
 
道知どうちと別れてから、策侑さくゆうは、顧客獲得と新規航路の開拓に勤しんだ。
 
元々の自身のテリトリーでもあった日本海側を中心に活動したため、江戸とは疎遠になる。進出しようにも、なかなかきっかけが掴めない。
 
船の上の生活が多いため、道知と文通することも考えなかった。何より、まだ、因碩いんせきが生きていて名人であること、道知が名人になれていないという事実が、道知に連絡を取ることを億劫にさせるのだった。
 
そうして、10年が過ぎた。

 



 
享保5年(1720年)、策侑の独立の際に世話になった島尾しまおひこ左衛門ざえもんが亡くなった。彼の遺言で、江戸の彼の商店の一部を、策侑が引き継ぐことになった。待望の江戸拠点だった。
 
10年ぶりの江戸である。島尾の遺品の整理も忙しく、策侑は本因坊ほんいんぼう家に、訪問の書簡を出した。すると、道知の方からこの日に来て欲しいという返事が来た。
 
その終わりに、「この度名人就任の祝いのため」会うのが遅れるという記述があった。




その言葉に策侑は、一瞬息が詰まった。そして、何か往年の肩の重荷を下ろしたような、ほっとした気持ちになった。
 
碁好きの店員に聞くと、因碩は二年前に亡くなっていた。道知が、次の名人というのは、天下の誰もが見ても明らかとのことだった。

囲碁にもすっかり疎くなっていたので、その言葉を聞いて、策侑は嬉しくなった。

その次の日に、因碩の墓参りを済ませた。道知との再会に、策侑は、わくわくとした気持ちを抑えられないでいた。



10年ぶりの本因坊門は、驚くほど立派な門構えになっていた。鮮やかな色の瓦が使われ、少し悪趣味にすら見える。
 
しかし、どこか寂しい雰囲気もする。すぐにそれは、門下生が少ないからだと思った。

若い門下生が来て、道知から案内するように言われていると道場を案内してくれた。しかし、策侑がいた頃に比べて道場がすかすかに思えるくらい少ない。
 
打っている門下生たちもどこか覇気が足りないという感じがする。何人かの打ち碁を見て、道知の部屋に案内された。




道知の部屋は、昔と何も変わっていなかった。書き物用の机が置いてあり、道知が跡目になって、ここに初めて来た日のことが思い出された。
 

「策侑、これからも我の元にいてくれ。そなたがいてくれると、道知は己自身でいられる。そなたと一緒に名人を目指す」


あの日の無邪気な道知の笑顔が浮かび、どこか胸が苦しくなる。

それでも、道知は名人にとうとうなれた。自分などいなくても、彼の力でなれたのだ。策侑は、自分にそう言い聞かせた。




座って、道知を待つ。辺りを見回していると、何故か落ち着かない気持ちがした。一体何かと考えていると、書き物机の上に、書物が半分開かれているからだと気付いた。
 
道知はこの本を見てどこかに行ったのだろうか。何か急ぎの用だろうか。何となく考えているうちに、その不自然な開かれ方が、どんどん気になってくる。
 
道知はわざとこれを見せているのではないか、自分にこれを見るように誘っているのではないか。
 
そんな言葉が頭に響く。それは、道知だったらこういう風に行動するという、一緒に暮らしていた頃に身につけた、直感のようなものだった。




策侑は、周りに人がいないのを確認して、書き物机のところにいった。
 
開いている本は棋譜だった。その記載から、将軍様の前で打たれた御城碁集だと分かる。

その横には、『本因坊道策ほんいんぼうどうさく全棋譜』と題された、道知や策侑の偉大な師匠の、恐らくは打ち碁集がおいてある。
 
御城碁集をぱらぱらとめくる。それは、道知が将軍様の前で打ってきた記録でもあった。
 
ふと違和感を覚えた。胸の鼓動が高く鳴る。ページをめくり、この10年の道知の勝敗結果を確かめた。

正徳元年(1711年) 先番5目勝 林門入
正徳2年(1712年) 白番2目負 林門入
正徳3年(1713年) 先番5目勝 井上因節
正徳4年(1714年) 先番3目負 井上因節
正徳5年(1715年) 先番5目勝 安井仙角
享保元年(1716年) 白番2目負 安井仙角
享保2年(1717年) 先番5目勝 井上因節
享保3年(1718年) 先番3目負 林門入
享保4年(1719年) 先番5目勝 林門入
享保5年(1720年) 白番ジゴ 井上策運


策侑は、呆然となった。
 
この10年間、先番なら5目勝ち、白番なら2目負けで、交互に勝ち、負けるということを、道知は繰り返していたのだ。
 
10年前、策侑が談合を指摘した時は、まだ2回か3回だった。だがそれから何も変えていなかったのだ。

これはもう、談合をしていますと、自白しているようなものではないか。
 
夢中でめくって棋譜を調べる。黒番では明らかに力を抜いて、相手を潰さないようにしてこちらの勝ちを確保し、白番では序盤で圧倒し後から緩んで「調整」しているのも変わっていない。
 
そして、最新の碁では、白番ジゴ(引き分け)。この後に名人になった。ということは、白番でも負けずに、天下一の力と認めるという、表向きの理由で作ったに違いない。




その碁の棋譜を見る。と、その途端に強烈な既視感に襲われた。
 
自分はこの碁を見ている。知っている。どこだ? 一体何が起きているのだ?
 
机の横にある「道策全棋譜」を夢中でめくる。そして、見つけた。
 
それは、道策と熊谷本碩くまがいほんせきが、元禄10年(1697年)に打った碁だった。
 
道知と策侑が入門する二年前に打った、道策と本碩の練習碁の名局であり、坊門秘蔵の棋譜である。当然、策侑も、何度も並べて勉強した棋譜だった。
 
道知が名人になる直前に打った御城碁は、その碁と、146手目まで全く同じなのである。
 
そこで手を作り替えて、道策と本碩の碁では黒の一目勝ちとなっているのが、道知の碁では、ジゴとなっていた。


元禄10年(1697年)
熊谷本碩(黒)-本因坊道策(白)
黒一目勝(棋譜は中途迄)
元禄10年に集中的に打たれた
本碩と道策の碁の一つ。
序盤はほとんど同じであり、
一種の実験的な試みだったと言われる


享保5年(1720年)
井上策運(黒)-本因坊道知(白)
ジゴ(棋譜は中途迄)
この黒の△から手順を変えている。
江戸幕府に公式に残された
道知最後の碁




怒りと、恥のような感情がこみあげてきた。こんな碁を道策は一体どう思うだろう。

道策と本碩、道知と策侑に入門のための碁を打ってくれた恩人たちに、何という仕打ちだろう。
 
不意に物音がして、振り向いた。
 
そこに、道知が立っていた。
 
道知は暗い顔で、策侑をじっと見つめ、そして、口を開いた。
 
我は名人になった、策侑




その言葉で、この10年道知が抱えてきた、孤独と痛みが、一気に策侑に感じられた。
 
誰よりも名人の才能を持ちながら、名人になることが出来なかった。

家元同士の平穏のために、名人の老因碩の黙認の元、碁打ちにとって至上の名誉である御城碁で、自分の実力を発揮することもできず、談合を重ねざるを得なかった。
 
その弱さを非難することはできる。だが、道知に何ができたのだろう。




策侑は道知を許すことはできないが、それを詰ることもできなかった。
 
ただ、自分が憧れていた名人という、至高の力が、この世から消えてしまったような気がした。




そして、道知のことを心から憐れに思った。心優しすぎて、人にいつも気を遣って生きざるを得なかった人。
 
そして盤面では、力を発揮する時は、相手を恐ろしく追い詰める、冷然とした碁のはずだった。それなのに、真剣勝負ができずに、美しいけど緩い碁としか、きっと後世からは思われないのだろう。

まるで、人ではなく、神の如き力を持ちながらも気弱な水の精霊が、間違えてこの世に落ちて、碁打ちになったようだと思った。
 
その水霊の、浅ましい人間への最後の抵抗が、他人の碁を、そのまま写すことだった。もう、道知は碁を捨ててしまったのだ。才能の限界を感じて、碁の道を捨てた、自分のように。




自分が傍にいたら、こんなことにはならなかったのだろうか。あの時、本因坊家を離れるという選択をしないで、道知を支えて、一生を過ごしていたら。

いや、もっと前、死を前にした道策に、何の躊躇いもなく、道知と共に生きると断言していれば、道策が遺言で因碩を苦しめることも、因碩が自分の名人位の安定のために、談合を黙認することもなかったのだろうか。

因果が全て回って、道知と自分に跳ね返ってきたようだった。

この美しい水霊は、本人が持て余すほどの、信じ難い強大な力を持っていた。道策はその力を目一杯広げ、碁の世界を繫栄させた。だが、道知や自分たちにはそこに賭ける覚悟も、勇気もなかったのだ。

道知を愛しているなら、自分の態度は十分でなかった。彼と一緒に自分の人生を捨てなければ、彼を愛しているとは言えなかったのかもしれない。いったい、自分の人生とは何だったのだろうか。自分はただ、愛する者から逃げて来ただけではなかったのだろうか。

策侑の頭の中を、言葉がぐるぐる回ってこだまする。




策侑は、道知と抱き合った。そして、声を上げて泣いた。
 
道知も泣き出して、何度も何度も強く、策侑を抱きしめた。
 



コラム


本因坊道知の墓は、東京巣鴨の本妙寺に、代々の本因坊の当主や跡目たちの墓と一緒にあります。
 
奥に一門を見守るように、偉大な名人、本因坊道策の墓があります。

その横に、道知の墓があります。それは、彼単独ではなく、本因坊道的、本因坊秀策と同じ墓になっています。
 
その他にも、共同の墓石はあります。しかし、道的、秀策という、跡目のまま夭逝した天才と、名人にまでなった道知が同じ墓なのは、非常に象徴的です。




7-2(エピローグ)


 
 
本因坊道知は、享保6年(1721年)名人碁所に就任した。その後、御城碁を打つことはなかった。
 
それから6年後の享保12年、道知は地方を旅行中に急死。享年38歳。
 
本因坊家は弟子の知伯が6世を継ぐも夭逝。その後、9世の察元が名人碁所に就任するまで、長い暗黒時代を過ごすことになる。




石田策侑はその後、順調に船商人として活動を広げ、三井の傘下に連なる大商人となった。多くの子供や孫に恵まれて、75歳で死去した。




策侑が息を引き取った時、彼の息子は、蒲団の横に何かが落ちているのに気付いた。
 
それは、白い花に、白と黒の碁石の着いた、お守りのようだった。
 
亡くなる直前まで、ずっと握っていたのだろう。彼が見ていた父親は、趣味などない、商売一筋の非常に厳格な人だったので、不思議な気がした。

策侑は、囲碁の話題など、子供たちの前で一言も口にしたことがなかった。そうした娯楽や賭博等には人一倍厳しく、子供たちには禁じていた。

良き商人であり、良き父親だったが、そんな父親の意外な一面を見た気がした。
 
その白い花は、長い年月が経って、琥珀色のさびがついて、陽の光に美しく輝いていた。彼は棺桶にそのお守りを入れて、手に握らせると、父親を見送った。
 



 



(終)



※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。

【参考文献】
・『日本囲碁大系 第三巻』(筑摩書房)
・『日本囲碁大系 第四巻』(筑摩書房)
・『日本囲碁大系 第五巻』(筑摩書房)
・『元禄三名人打碁集』 福井正明著
(誠文堂新光社)
・『物語り 囲碁英雄伝』田村竜騎兵著
(マイナビ囲碁文庫)
・『坐隠談叢』安藤豊次著
(關西圍碁會 青木嵩山堂)
・『道策全集』藤原七司著(圓角社)

※第1話

※第2話

※第3話

※第4話

※第5話

※第6話




今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?