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孤独の中の暖かな愛 -映画『ラブ・ストリームス』の美しさ


 
 
【木曜日は映画の日】
 
 
巨匠の最後の作品というのは、今までにない新しい展開で周囲を困惑させるような意外な傑作か、それまでの集大成の名作となるかが多い気がします。
 
アメリカインディーズ映画の名手、ジョン・カサヴェテスの晩年の映画『ラブ・ストリームス』(1984年)は、彼の過去作品の要素を受け継ぎながら、それが最後の輝きを見せている、美しい映画です。
 
それは、孤独と愛についての映画です。





作家のロバート・ハーモンは、豪華な屋敷に女性たちを招き入れて暮らし、気ままに取材をしたりする生活をしています。
 
彼の姉サラ・ロースンは、離婚協議、そして娘のデビーの養育権を巡って、心身をすり減らしていきます。
 
ロバートの元へ、前妻が訪れ、彼の子供アルビーを一晩預かってくれと言われます。初めて会うアルビーに戸惑うロバート。
 
そして、外国旅行から帰ってきたサラが、ロバートの元を訪れます。サラに家を任せ、ロバートはアルビーを連れてラスベガスに行くのですが。。。




ロバートを、監督で名優でもあったカサヴェテス、サラを彼の妻で名優のジーナ・ローランズが演じています。

そして、この二人の姉弟の共通点は、コミュニケーションに問題を抱えていることです。


『ラブ・ストリームス』
左:サラ(ジーナ・ローランズ)
右:ロバート(ジョン・カサヴェテス)


 
ロバートは、ナイトクラブで会った歌手スーザンにどう気持ちを伝えていいか分からず、アルビーとどう接していいかも分からない。

一見男らしく口もうまいので、屋敷の女性たちや、スーザンの母親等に好かれるのですが、おそらくは、自分の本心や本当に望むことを、相手に伝えることができない。彼の周りに多くの女性たちがいるのに、誰よりも孤独に見えます。

 

『ラブ・ストリームス』


そして、サラは、逆に、過剰に自分の望みを伝えすぎて、人から拒絶されます。

彼女が娘のデビーに「もう暮らしたくない」と言われるところや、夫との生々しいやりとり。いわゆる「毒親」に近いタイプの、コミュニケーションがとれない人物です。
 

『ラブ・ストリームス』


他人からは、人の意見を聞かずに、自分を押し通して周囲を勝手に振り回しているように見えます。しかし、彼女の問題は、相手を受け入れることと、自分の望みを言うことのバランスが取れないことのように思えます。
 
誰よりも愛を求めていても、求めるほど拒絶されて、孤独になっていく。ロバートとは合わせ鏡の存在なのです。


『ラブ・ストリームス』




二人の問題は、家族、つまり自分の配偶者と子供に、一番うまく接することができないということでもあるのでしょう。赤の他人には結構モテるのに、一番心を通わせるはずの家族には、拒絶されて、路頭に迷っている。
 
アルビーと別れた後の、ロバートの深い痛みを抱えた表情。そして、サラのあまりも甘美で悲しい夢のシーン。そんな場面からは、孤独の溜息が聞こえてくるかのようです。


『ラブ・ストリームス』




カサヴェテスは時折ハリウッド映画に出て、生活の足しにしつつ、ニューヨークのインディーズ映画監督の立場を貫きました。
 
彼の映画に出てくる人物の多くは、コミュニケーションに問題があります。

そしてその映画の特徴は、一見ドキュメンタリーか即興かと思うほど生々しい、役者たちの延々と続く強烈な演技です。
 
初期の傑作『フェイシズ』での、上流階級の酔っ払いたちのバカ騒ぎと、ふとした瞬間に訪れる沈黙のこわさ。


『フェイシズ』


傑作『こわれゆく女』で、まさに、「こわれていく」ジーナ・ローランズ演じる主婦と、ピーター・フォーク演じる夫との、一触即発の、胃が痛くなる長いやりとり。
 

『こわれゆく女』


面白いのは、シーンが長いのに、カット自体は結構短いことです。

映画批評家遠山純生氏の名著『アメリカ映画史再構築』に詳細に分析されていますが、カサヴェテスの映画は、一見即興に見えて、かなり厳密に脚本と台詞は決められています。
 
そして、役者が自由に動き回り、カメラが役者を邪魔しない場所で捉える。大量にテイクを撮り、「同じ場面を様々な場所からとらえた断片」ができあがる。

それを編集によって、現場にあったような緊張感と生々しさを再構築するという方法がとられています。
 
これにより、緊張と破局のギリギリの間で、綱渡りするような、驚異的な作品たちが生まれました。実際の現場もそうした緊張感に包まれ、特に『こわれゆく女』の製作後は、疲弊しきっていたといいます。






ただ、『ラブ・ストリームス』では、そうした過去の大傑作のような、孤独でコミュニケーションが不得手な人物の描写を受け継ぎつつ、強烈な緊張感は後退しています。
 
いい意味で普通のアメリカ映画のような、穏やかなやりとりと、オーソドックスな編集があります。そして、ロバートやサラを追い詰めるようなこともしない。

二人とも孤独を噛みしめつつ、路頭に迷いつつ、それでも前を向こうとしているところがあります。


 

『ラブ・ストリームス』


『ラブ・ストリームス』製作中に、カサヴェテスは余命六か月を宣告されていました。

「これは楽しい映画だ。僕が死ねば最後の楽しい映画になる」と語っています。実際は、そこからもう一本映画を撮り、89年に肝硬変で亡くなっています。
 
しかし、自分の最後の楽しい作品になる、と自覚したゆえ、過去作よりも、もっと登場人物を肯定しよう、という明るく暖かい意志が溢れているようにも思えます。そうした生へのポジティブな力が、この映画にはあるような気がするのです。


『ラブ・ストリームス』




ポジティブと言っても、希望に満ちた若者が人生を前向きに生きるのとは違います。
 
自分の最も愛する人が去っていく。それをどうすることができないのも分かっている。もう時間がそれ程残されておらず、自分が年老いていくのも分かる。

ただ疲れて、歩くのも難しい。夢の中でしか愛する人と話ができない。

それでも、生き続けること、やり過ごしていくこと。

孤独を感じつつ、愛や、暖かさを求めることを止めないこと。

映画のラストは、そんなことを表しているようにも思えます。

孤独と共に生きるために大切なことを、この映画は、教えてくれるように感じるのです。それこそが、コミュニケーション不全を容赦なく描き続けてきたカサヴェテスが、最後にたどり着いた境地でした。


『ラブ・ストリームス』





私が好きなカサヴェテスの言葉があります。


ぼくは爆発するヘリコプターなんてみたことがないし、誰かの頭を吹っ飛ばしに行く人間なんて見たことがない。なのにどうして、ぼくがそんな映画を作らなきゃいけない? 

でもごく慎ましく自己破壊している人たちは見たことがある。現実から引きこもってしまった人たち、政治思想に逃避してしまった人たち、麻薬に、性革命に、ファシズムに、偽善に逃げ込んだ人たちをね。

そして、ぼく自身そうしたことを経験した。ぼくらが映画の中で言っていることは、とても穏やかなことだ。穏和なもんだよ。ぼくらはいろんな恐ろしい問題を抱えているけど、それは人間的な問題なんだ。

レイ・カーニー編『ジョン・カサヴェテスは語る』遠山純生・都筑はじめ訳


まさに、人間的な問題、孤独と愛についての映画が、カサヴェテスの映画です。

そして、サラが語るように「愛は流れるもの(ストリームス)」であり、その流れは、この映画を観た私たちにも流れ込んで、孤独の中にある愛について考える契機になると思います。是非、そんなカサヴェテスの映画を、一度体験いただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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