静寂の中で自己と向き合う -映画『ラブレス』の美しさ
【木曜日は映画の日】
私にとって優れた作品とは、ある特定の状況を描いて、それがどこでも通じる普遍性を持っていることのように思えます。その普遍性は、私たちの鏡となって、自分自身をも映してくれる。
ロシアの映画監督アンドレイ・ズビャギンツェフが2017年に製作した映画『ラブレス』は、そんな普遍性に達した傑作です。
モスクワ郊外の、高級アパートに住む一家。一流IT企業に勤めるボリスとジェーニャは互いに愛人を作り、離婚に合意しています。
新しい生活のため、一人息子のアリョーシャを引き取りたがらず、お互いに押し付けようとする醜い口論を毎晩繰り広げる二人。
そんなある日、アリョーシャが学校から戻ってこず、行方不明になります。
必死に捜索するも手がかりは全くなく、じわじわと二人は追い詰められていきます。アリョーシャは、果たしてどこに行ってしまったのか。。。
この作品が優れているのは、人物から距離をおいていることです。
アリョーシャがなぜ失踪したのか、最初は全く分からない。両親の口論を陰で聞いて声を上げずに泣くシーンがありますが、消え方があまりに自然で何の予兆もないため、類推することも難しい。観客は憐れみや感情移入ができないようになっています。
両親は、子供を押し付けあうくらいには疎ましいけど、かといって全く愛していないわけでもない。でも子供なんていなければ、と思ったことはある。そんな居心地の悪さ。
多くの観客は、彼らに同情もできず、やはりここでも感情移入が封じられています。
そのように距離を置いた結果、この映画は緩慢に流れる、人生の空白のような時を捉えて観る者に味合わせることに成功しています。
何の成果もなく子供を探し、飲み下せないものを抱えたまま、いつもと同じ職場に行き、今自分が愛している(と思っている)人と、性的に触れ合う。泣くことも叫ぶこともできない灰色の時間。
そんな時の中で、変わらない曇り空の灰色の風景が、異様に美しい。人探しサービス会社(実際にあるそうです)の部隊が歩きながら呼び掛ける『アァーリョーシャァーー』という声が響く、しんとした森。彼がよく行っていたという水浸しの廃墟。
途方に暮れる二人と同様に、観る者もそんな場所の空気感に染まっていきます。感情もドラマも消え、自分の中にある底なし沼の中に、音もなく沈んでいくような時間。
ブリューゲルの『雪中の狩人』の絵の引用もあり、この絵や廃墟を愛したタルコフスキーも少し思い出しますが、決してただのオマージュになっていません。寧ろそれらの名作と違う方法で、同様の静寂に達しているように感じます。
静寂の中で、醜いエゴや無関心が炙り出され、その奥底にある彼ら自身が、段々と剥き出しになっていく。なぜこんなにも合わないのに結婚したのか。子供を育てるとは何だったのか。本当に誠実に人と接してきたのか。彼らは人生で何を得てきたのか。
その問いの果てに二人が何に遭遇するのか、是非観て確かめていただければと思います。
監督のアンドレイ・ズビャギンツェフは、1964年旧ソ連生まれ。元々売れない俳優でしたが、テレビシリーズを演出したことがきっかけで、監督を目指すことに。
2003年に長編第1作『父、帰る』で、突然帰還した父親と息子たちの不和を、異様に美しい自然の中で描き、ヴェネツィア映画祭で金獅子賞を受賞。やはり長編第一作目で金獅子賞を獲ったタルコフスキーとも比較される作家になります。
『ヴェラの祈り』、『エレナの惑い』と佳作が続き、力作『裁かれるは善人のみ』も高く評価を受けた後の長篇5作目が『ラブレス』です。
謎めいた人物や象徴を、美しい自然の中で描いてきたズビャギンツェフでしたが、その手つきがややあざとい感じに見えてしまうこともありました。
『父帰る』の、突然復権した父親という設定や『裁かれるは善人のみ』の剥き出しになった巨大な化石等、深読みを誘う細部がありました。「○○の人物はロシアの国民性の象徴だ」とか「この××の事件は、彼らの無垢が消失したことを示す」とかのような。
『ラブレス』はしかし、離婚も経験した彼がかなりパーソナルな領域に踏み込んで、シンプルに削ぎ落された作品になっています。アリョーシャの失踪を何かの喪失に結びつけるには、手掛かりがなさすぎるでしょう。
そうした限定された意味のメタファーではなく、もっと広い意味での象徴、しっかりとした設定が監督自身によってなされています。この作品は2012年に始まり、2015年に終わる。その間のロシアに生きた人々の精神状態を描いていると明言しているのです。
レストランでのセルフィーとか、IT企業のオフィスやカフェテリアってどこの国も結構似ているんだな、というような感慨だけでなく、その時代の人々の暮らしを丁寧に描くことで、彼らが現実に翻弄された歴史(それを説明する必要はないでしょう)、その時の精神状態を掘り下げる。
そうすることで、成功した生活が幻滅へと変わっていく、そんなどこの国のいつの時代にもある感情をも、余計な小細工抜きの静寂の中で描き、普遍性を獲得しているのです。ズビャギンツェフにとっての現時点での最高傑作だと思っています。
その出自通り、彼はロシアの伝統ある撮影所出身ではありません。寧ろ世界的に撮影所が崩壊した後に出てきた、インディペンデントな作家の一人であり、スタッフも彼専属の、仲間内での作品製作をしています。
『裁かれるは善人のみ』で腐敗した役人を徹底的に糾弾したため、『ラブレス』は国の助成金が受けられず、外国資本で製作されています。
2017年の『ラブレス』まで3,4年に一本のペースで撮ってきましたが、その後に起きた出来事もあり、長らく音沙汰がありませんでした。心配していたところ、病気に罹って現在は拠点を海外に移しているらしく、2024年には『Jupiter(仮)』という長編を製作中とのこと。
ロシアのオルガリヒ(富裕層)を描く、今までとは違う作品で、エリック・ロメールのように(!)饒舌な作品になるかもとのことで、健在だったことは何よりです。
映画監督のジャン・ルノワールは「私たちは映画という共和国の中に住んでいるのだ」と言っていたことがありますが、すぐれた作品を創る人は、自分の出自をしっかりと見つめることで、政治や国境を越えていきます。
そして、恐らくは多くの人が持つ、心の中の静寂がある場所に触れ、私たち自身がいるはずのそこへと連れて行く。『ラブレス』はそんな作品です。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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