1960年の日本紀行 その1(東京→荒浜)
高校の時の地理の大沼一雄先生(故人)による紀行文「カッパ先生陸地を行く」(二見書房)の紹介です。絶版で古書としても入手は困難です。高校の時に地理が好きだったこともあり手許にあったので内容を紹介したいと思います。紹介の対象は全行程の1/4にあたる第一章のみです。
この本の紹介をしようとしたきっかけは、NHKドラマ「宙わたる教室」(2024年)を視聴している時、定時制高校に通う老人長嶺が福島の炭鉱町から集団就職で東京に出てきたという設定で、本のことを思い出したからです。この紀行文では、長嶺が集団就職した当時の福島の炭鉱も訪れています。
地理の先生による1960年の東北地方の紀行文なので単なる旅行記では無く貴重な生活・風俗・生業の記録となっています。私が生まれる前の記録です(私が地理を習っていた時の大沼先生は定年間近でした)。
「カッパ先生陸地を行く」
カッパ先生というのは、私の高校の先輩達が大沼先生のことをそう呼んでいたからです。ちなみに今の私も頭がカッパです。
この本はカッパ先生がスクーターで1960年の夏に東北を巡る旅です。スクータを使っていても、その頃の舗装道は旅程の一部に過ぎません。でこぼこ道を進むスクーターの平均時速は10kmです。当時の一日の旅の予算は、食費・宿泊費・ガソリン代込みで1000円。各章の大まかな筋と印象に残った記述を紹介します。
第一章 新しい村とふるい町
東京→水戸→東海→日立→高萩→常磐→内郷→荒浜
(()内は自分のコメント)
東京駅を出発。千住では通勤通学の自転車部隊とすれちがう。荒川を渡ると葛飾区。その頃は駅周辺を除くと田畑が広がっており、道端ではクワを担いだ農夫がくつろいでいた。江戸川を渡り松戸経由、柏に至り定食屋で朝食。朝定食は30円。その日のうちに水戸に至る。
(自転車部隊!少し前の東アジア諸国のようですね。葛飾区金町は今は大都会に飲み込まれましたが当時はド田舎でした)
水戸は剣道と学問の街。東武館という剣道場を取材して水戸市街へ。観光旅行ではないので偕楽園は素通り。東海村へ。
(水戸の宿は一泊食事付きで1160円と高額!。当時の観光地価格ですね)
東海村では「原子力研究所」を見学、「原子力ヨーカン」や「原子力アメATOM」を味わう。「原子力研究所」ができる前の周辺地価は、舗装道路も無く一坪150円だったのが、できた後は、道路も舗装され一坪5000円くらいになったそうだ。東海村の宿は一泊食事付きで500円。安いがノミと蚊と隣のいびきで一睡もできず。東海村からは、企業城下町である日立へ向かいます。
(「原子力まんじゅう」もあったそうです。今もあるのでしょうか?その頃の宿には普通にノミがいたのですね。宿屋には殺虫剤のBHCが置いてあって、宿泊客がノミよけに布団の周囲に撒いたりしていたようです。日本では、1960年代に牛乳にBHCが残留していることが大問題となり1971年以降BHCの使用は禁止されています)
日立製作所の発祥の地で工場見学。日立は日立製作所の企業城下町です。当時の市の収入の1/3は日立製作所から。現地の人は日立製作所を「日製」と呼んでいたようです。今と同様、家電(テレビ・冷蔵庫・洗濯機など)と重電(発電機や電車など)を作っていて、当時は好景気に沸いていたようです。敷地内に日立工業専修学校という工員養成所があり、当時は高校卒業資格が得られないにも関わらず選抜試験の倍率は20倍でした。中卒エリートコースです。日立からは炭鉱の町、常磐へ向かいます。
(日立工業専修学校は今もあって大学入学資格も得られるようになっています。日立は純国産にこだわったプライドの高い会社でした。東海村や日立は好景気で光に照らされた街、その先に続く炭鉱街はどん底景気の陰の街でした)
日立から北へ向かうと、そこは炭鉱の町です。ぼた山がいたるところにありますが、当時は石炭の輸入促進、石炭から石油への切り替え(いわゆるエネルギー革命)が進んでいる最中で、どん底に近い不景気でした。地方新聞を読むと、母親が子供が通う小学校の文具代の5円すら手当てできない、それどころか泣く泣く娘を女衒(風俗のスカウト)に売るといったことも公然と行われていたようです。常磐からは仙台の手前荒浜へ向かいます。
(1960年代に入っても、日本で人身売買が行われていたことに驚きました。炭鉱離職者の苦境があまりにひどいということで転職支援の「炭鉱離職者臨時措置法」が1959年に成立していますが、1960年時点では措置法の効果が行きわたっていなかったようです)
常磐の北は湯本、内郷と温泉の街が続いています。炭鉱から噴き出した温泉水を湯本に引いたのが始まりです。
(「スパリゾートハワイアンズ」などがあるところです)
炭鉱からは毎分1500立方メートルの温泉が噴き出していましたが、湯本で使うのは毎分50立方メートルだけ、残りは川に捨てていたものを内郷などの別の町が回収して温泉施設を作っていたそうです。町内を流れる川も無料の天然露天風呂になっていて真昼間から老若男女問わず素っ裸で利用していました。
(今と比べると、おおらかなもんです)
その後宮城の荒浜に着くまでの記述はわずかしかありません。ホコリの舞い上がる悪路が続いていたそうです。
(福島第一原発のメルトダウンによって壊滅的な被害を受けた地域です。当時どうなっていたのか興味はありますが、ほこりがひどいことと職務質問を受けたことくらいの記述しかありません)
印象に残ったやりとり
炭鉱労働は重労働で、今と違って健康への配慮などありません。20年働くと炭肺病(炭坑夫塵肺症)にかかります。いったんかかると進行を止められない不治の病でした。40歳になった炭鉱夫は老人のように見えたそうです。
それでも仕事があるだけましで、1960年は全国的に仕事を失う炭鉱夫があふれていました。炭鉱住宅で会った子供とのやり取りが印象に残りました。
「お父さんはまだ帰らないの?」
「ずっと家で寝てるよ」
「どうして?」
「一週間ほど前に落盤でけがをしたの」
「大きくなったらお父さんと働きたい?」
「イヤダ、あんな恐ろしいとこは」
宙わたる教室
定時制高校に通う老人長嶺が故郷を出た頃の福島の炭鉱町の状況を思い描くことができました。実は旅行記の第2章では、じん肺を患っている長嶺の奥さんの故郷である青森の「寂れた漁村」に向かいます。機会があれば紹介したいと思います。