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「天路の旅人」感想。沢木耕太郎著。

沢木耕太郎の新作

2022年に出版された沢木耕太郎9年ぶりのノンフィクション。ベストセラーになり、手に取ってみた。

読んでる途中の知人もいるので、ネタバレは概要欄的なもので抑えるとして、素晴らしい書評はほかで読んでいただくとして、僕は僕の個人的な感想を記録したい。
先日のエゴンシーレの感想も、9割概要だけで終わってしまった。本当は最も個人的な感想こそ大切なのだと思う。

311のこの日に、どうしても読み終えようと思った。残り数十ページに3時間もかかってしまった。
読後は、空っぽだった。言葉が出てこない。とても簡単に言える代物ではなかった。
そもそもが、このタイトルから想像する僕が期待していた展開とは「全く違う」物語だった。
僕は仏教の勉強をちょっとかじっていたし、仏の存在、その精神性、そして悟りに至る過程など、まるでブッダに近づいていく物語と期待していた。
しかし、笑えるくらい勘違いだった。ある意味「つまらない」とも言えるだろう。この本は「旅人の達人」の記録だ。恐ろしいほどに現実的で過酷な旅の記録。しかしそこは沢木耕太郎節。読ませる、読ませる。未知なる世界がありありと想像できる手腕は流石の天才である。主人公と共に、一つ一つ経験して、本当の旅人になっていけるのだから。とても安全な世界で。。

最初の場面で、沢木と西川が出会う盛岡の街。僕は311の震災以降に毎年展覧会で通っているので、その描写がありありとわかる。川や橋やホテルまで。それが一気に没入できた。

さて、読後。
空っぽのまま、帰り道にトボトボと歩いていると、湯水のように感想や疑問が沸き起こってきた。そして違和感も。この違和感がなんだろうと考え続けていた。
妻に説明するんだけど、全ての言葉が薄っぺらく、他人事のようだった。概要的な薄さで、的外れな説明に加え、自分でもよくわからない違和感が、さらに歪さを増しているような気がした。
違和感は「虚しさ」だった。
【天路= 仏教でいう六道の一。天上にあるとされる世界。天上界。また、天上界へ通じる道】
その旅を終えたことの大きな空虚感。そして、その後の人生について・・。

話をまた戻そう。シンプルに一言で、と思う。シンプル。深く感じること。複雑だからこそ。言葉が出ないからこそ。それでも、その道筋はいつくかの分類になった。

「自由」とは。
「悟り」とは。
「生きる」とは。  
「目的」とは。
「旅」とは。
「時代」とは。

ここまで絞って、一つ選ぶならば、「生きる」とは。かもしれない。

この本の凄さは、そのエンターテイメント性にある。仏教哲学者・佐々木閑教授の「出家のすすめ」というYouTube講座があるが、まさにこの主人公、西川一三は壮絶な旅の終えて、その後は出家的な人生を送った。元旦を除く364日働き続け、何事もない人生を終えた。妻や娘すら、彼が何者なのかを知る術もないほど、寡黙だった。
生きることの知恵を尽くし、強く生きた壮大な旅と、その後の半生のギャップを、誰しもが個人の感想を持てるような・・。普遍的なテーマを感じ、楽しみながら考えることが出来るのだ。まるで、旅を楽しむように。
どんな立場でも、どんな世代でも、チベットに行ったことがあろうがなかろうが、仏教に興味を持とうが持つまいが。それが、つくづくすごいと思う。作品として。

さて、また話がそれた。個人的なネタバレに触れない感想。「生きる」とは。

自分の実生活で、「生きているのか?」と問いただす。沢木耕太郎はインタビューでこう答える。「お金がないという自由。自分で旅を選べる。それはとても純度の高い旅だ」と。
純度の高い人生とはなんだろう。その答えは、我々の感覚と真逆にある。何を持って、生きると言うのか。それも100人いたら100通り。現に僕と妻ですら全然違う。だから面白いし、自分の答えで良いということになる。

僕はある答えを出した。僕だけの答え。「生きる」とはこういうことじゃないかって。西川一三が生きた異なる二つの世界に共通していた「達人の術」を、なんども何度も考える。そして、違和感が増す。絶対受け入れたくないものもある。
しかしそれこそが、本当に僕が求めているものだということを、受け入れざるを得ない。
青春時代の西川一三は、それをラマ僧として学んだ。その土地から学んだ。その住民や出会う人や、大自然や動物たちや、日々の衣食住から学んだ。それは終わりを告げたが、彼の人生はまだまだ、長すぎるほど続いた。旅は旅でいつかは終わる。しかし人生は続くのだ。

僕の心境に大きな変化があった。
連日、子育ての大変さを嘆いていた。もうノイローゼ気味だった。壊れていく心を止める術がなかった。

夜、オンラインレッスンだった。隣の部屋で息子は大泣きで暴れ回っていた。昨夜のライブ配信の失敗があり、息子の割り込みだけは防ごうとしたが、ますます暴れ泣き喚くだけだった。当然妻の手に負えない。

僕は意を決して、レッスンを少し中断し、息子をなだめ、妻を労い、アトリエに連れ出し、オンラインレッスン中に目の前で絵を描かせた。
息子の機嫌は瞬く間に良くなり、ピカチュウやら電車やらを描きながら、おしゃべりをしては参加者に笑われていた。

僕の心は微動だにしなかった。それどころか、静かな愛に溢れていた。自然にその状況を受け入れ、ベストを尽くした。身体はすでに限界なのに、心はとても静かだった。

「生きる」ということの極意。
書評や感想では、「普通の生活のありがたさ」とか「究極のミニマニストの豊かさ」とか「本当の自由」とか「足るを知る」と書かれていた。
しかし、僕のごく個人的な生活において、この本を読んだ後の心の変化は、そのどれにも当てはまらない。

強いていうなれば、、「無」と豊かさ、だろうか。。
やはり禅の教えから、理解しようとしているのだろうか。しかし、どの禅の教えよりも、西川一三の旅と、沢木耕太郎の表現は、深く心に入ってきた。

珠玉の旅のエピソードもある。西川一三が理解した「仏」とは。そしてブッダガヤにいた老人のこと。
僕としては、西川青年のラマ僧としての修行の行方などが超・萌えポイントなんだが、それはただ一つの術でしかなかった。

そして「1人で旅をする」というキーワード。これもギリギリネタバレを避けるとして、同じく密偵で旅をした日本人の木村との、帰国後の人生のあまりの違いに、唖然とする。ここで、彼が稀有の旅の達人である所以がわかる。好みの分かれるところだけれども。。笑。本当に。

今日のところは、このくらいの抽象的な答えで留めるとしよう。
「生きること」。もっとも純粋なところまで、深く見つめること。

知人が読み終わったら、ネタバレ込みでまた感想を綴ってみたい。

次は「人生(=旅)のミッション」についても書きたいな。西川青年は、確かに何者かに呼ばれているとしか思えないから。与えられるべくして、与えられた試練。その奇跡を、残りの半生でどう体現したのか。国も歴史も文化も違う、戦後の母国で。。これを思えば、胸が熱くなる。
巻末の締めが、もうこれに尽きるのだ。

おしまい。

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