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「暇だから悩むんだ」 ー山と瞑想の日々ー

僕はもっぱら山では「考え事」をしてると、いつかのnoteの記事で書いたけど、今回は続きのようなnote。

ここ最近も、また高尾山から小仏城山の縦走と、鎌倉の山を歩いて来たが、たっぷりと歩く瞑想ができて、考え事ができた。考え事は、やはり迷い、逡巡し、堂々巡りし、反芻しながら、体を動かしながらひたすら考える。内観とも呼べる。

では、僕がいったい何をそんなに考え、迷うのか?

世に言う悩みというものの通例に漏れず、基本的には個人的なことである。

個人的というのは、世界から戦争がなくならないのはなぜか?とか、日本の少子化対策への傾向と対策とか、サスティナブルな社会への移行のためにやるべきことはなにか?というような、社会的であったり、ワールドワイドな視点の悩みではないということだ。

ただ、僕が悩んだり迷ったりするのは、いわゆる世間に多いお悩みのベスト3、お金。健康。人間関係、などなどの、そういう話でもない。そもそもそれらに対して現状で問題があるならは、解決に向けて動いているし、解決策がないのなら、ただ「待つ」「見守る」しかないので、悩む時間が無駄だから、そんなことはあまり考えない。(以前はいつもそれらで悩み苦しんでいたよ)

で、その「個人的なこと」とはなにか?

それは自分の生き方やら、仕事のことやら、今後のことやら、世界とか宇宙に対しての自分の在り方とか、どう転んでも答えの出ない哲学的なテーマを孕んだ内容も多いが、もっと具体的に、文章について、歌を歌うことについて、音楽を作ることについて、自身の探求を深めることについて考える。

さらに詳細に、現在取り掛かっている作品についてとか、そういう建設的で、創造的な思考としての悩みもある。また、探求の一環として「内観」という名の、自分の思考の奥に光を当てる行為もある。それらの迷いは過程(プロセス)であり、通過ポイントに必ず発生する。

(もちろん、家族のこととか、そういう身近なことも考えるけどね)

しかし、どうしても自身のアウトプットの内容と、その精度については、一番悩んだり迷ったりしている時間が多い。

自分はどれくらい自分を表現できているのか?
自分は全力でやれているのか?
そのクオリティはどうか?
もっと良くできるのではないか?
もっと上手くできたのではないか?

僕は音楽やら執筆やら、自身の探求やら、あれもこれも手を出す性分なので、結果どれもが中途半端な気がしてしまう。

それは言い訳にはならないのはわかっているけど、一つ一つに常に納得できないポイントがあり、どこかで妥協している気がしていたり、その妥協に後悔したり、たとえばこうしてこのnoteを書いていることですら、創作行為に行き詰まったり、向き合いたくない時の「逃避」のニュアンスも含まれているような気がして、それらすべてにイラついたりもする。

しかし、自分なりにだが、妥協を許さずに、一つに集中して突き詰め、それをアウトプットしたとしても、現実には大したリアクションや評価が得られないことも多く、それはそれでまた新たな迷いを生み、自分が間違っていたのかと煩悶してしまう。

一生懸命にやったものがクオリティが良いわけではないし、クオリティが高いものが高評価を得るとは限らないのだ。

そうかと言って安易に綴ったものに対して高評価やリアクションが多いと、それはそれで新たな迷いが生まれるのだから、もうどうしようもない。

しかし、前回も書いたのだけど、こんな風に「苦悩」をするというのは、ここ最近だ。若い頃の「苦悩癖」は、だんだんと収まり、特に個人起業して、周囲の動向に流されていたのか、苦悩よりも、何かと人生のポジティブな側面の方を優先させていたと思う。

でも、この頃というかここ2、3年だろうか?特にコロナ期になってからが顕著だが、とにかく自分の人生、ライフスタイル、仕事、方向性、あり方、伝え方など、あらゆることを考える。多分、自分がここ数年やってきたことに対して、ずっと目を瞑ったり、違和感を誤魔化して来たことが、いい加減嘘をつけなくなったのだろう。

いや、別に発信してきたことや、伝えてきたワークには嘘はない。僕がずっと真理を幸福を追い求めて、精神を探求してきた体験と知恵をシェア(共有)してきたし、今もそれは探求クラブというサークルがメインだが、継続されている。

そうではなくて「自分はこの仕事を本当にやりたいのか?」ということだ。

周りのスピリチュアル・ビジネスをやっている人たちの自分とのギャップをずっと感じていて、彼らはそれらのメンター業や、自己啓発講師、スピリチュアル作家というものを「やりたくてやってる」し「なりたくてなった」人たちであった一方、僕は「なんとなくなってしまった…!」というに過ぎなかったのだ。

さらに言えば、僕が瞑想だの心の世界だのという仕事をスタートさせたきっかけは、実は「お金のため」だった。

貯金を切り崩して生活していたが、いよいよ金がなくなってきて、かと言ってバイトとかしたくなかった。

「やりたいことをやって生きよう!」

という思いはあり、その手の本を山ほど読んだ。そして僕のやりたいことは「歌」と「小説」であることは明白だったけど、その時点ではまったくそれを金に変換できなかったので、「やりたいこと」の前に、「今の自分にできること」をやろうと思った。

そこでずっと積み重ねて来た瞑想に関するノウハウや、スピリチュアルの知恵を商品にしたのだ。

と言っても、それだけをやったわけでもないし、それが上手くいくとか、「成功するビジョンがある」とか、「望んだ未来を引き寄せる」とか、そんなの皆無で、地元でアコースティック・ライブもやったし、小冊子に短編小説を書いたりもした。ギターの先生もやった。

直接お金には結びつかなかったけど、ブログも一生懸命書いたし、瞑想の本も書いたりしてみたりした(お蔵入りになったけどね)。あれこれと試行錯誤しながら挑戦していったその中で、「当たった」のが、瞑想講師などのスピリチュアルジャンルだった。

もちろん、それは楽しかったし、やりがいもあった。感謝もされたし、必要とされているとも感じた。

しかし、それは「自分のど真ん中」ではないのは明白だった。なぜならそもそもの「やりたいこと」ではなかった。自分自身は、若い頃から坐禅したり、「氣」とか「エネルギー」の世界や、思考哲学から精神世界のことを探求するのは好きだったけど、それってあくまでも自分の「内的」なものだから、それを教えたり、誰かを導くことは、副業と感じてしまう。

そしてスピリチュアル・ジャンルのメインストリームに近いところにいたけど、ジャンルとしてのスピリチュアルが、僕の求める「霊性としてのスピリチュアル」とあまりにかけ離れていたこともあり、失望することが多かった。

だから、だんだんと舵を切っていった。もちろん、精神世界の探究は終わることはないし、それはシェアしていく。ただし、できるだけ手応えがあり、妄想や自己催眠ではない、確かなものを。

そういう活動はしつつ、自分の中心は「表現者」としてやるだけだ。

でも、今度はそうなったで自分の表現力に対して、真っ向から向き合い続けないとならない。どんな世界にも「下には下がいるし、上には上がいる」もので、下と比べて優越感を得るより、僕の場合は上と比べて劣等感を感じるタイプなので、とにかく自分の文章力、表現力、歌唱力、作曲技術など、稚拙と未熟さばかりが気になってしかたない。

だから、上を目指す。でも、上と言っても、誰かと競うよりも、この頃は「自分自身の問題」だ。自身が納得できるか、自身が満足できるか。

にしてもだ、こうしてあれこれと思いを巡らせることができるというのは、贅沢なことだと思う。暇があるからこれだけあれこれと自分のことを考えられる。そう。僕は暇人だ。HIMAJIN。

僕も多くの人から悩みを聞いてきたが、悩みの多くは「悩む暇があるから悩める」ものであり、悩む暇がない人は、どんなトラブルがあり、どんな問題があろうと、ただ目の前の事柄をこなすだけで、悩んだり迷ってる時間などないのだ。

だから僕は悩んだり、思考をこねくり回す時間を、非常に贅沢な時間だと理解しながら、大いに迷い、考えるのである。

そして、考え事するには、多少の運動と、集中できる環境があるとなおベターなので、「山」に行くとそれらは捗り、その苦悩は“苦”ではなく、思考を解放させるJOYになる。

ただ、勘違いして欲しくないのが、極端に「じゃあ山籠りします!」とか「ヒマラヤ行ってきます!」というのは、悪いことじゃないけど、そこで得られる精神的な探求って、なんか違う気がする。

あらゆる探求や精神性のワークは、「日常」の中にある。僕にとって山歩きは日常であり、日々の散歩も日常。とにかく歩く。歩きながら考える。

もちろん、時には特別な場所で、特別な時間を過ごすことは必要だ。でも、それを日常に持ち帰り、日常でこなせるかどうかがポイントだろうね。

で、結論というか、総括というか、こんな風に僕が「楽しく悩める」というのは、豊かな証拠。ヒマ、と書いたが、ある意味心の余白や余裕があるってことだ。

もちろん、世の中には先の見えない絶望的な悩みってものがあることは知っている。しかし、あなたにもしも「悩み」があるのなら、ひょっとしてあなたの心の余裕の一つかもしれない。

実に人は悩まなくてもいいことを悩んで、自分を悲劇的ポジションや被害者的ポジションに置きたがることがあるからだ。

ま、なんにしても、自分の人生は、常にそうやって新しい自分に出会っていくことで、創造されていくのだから、悩もうが迷おうが、結局は「やるか、やらないか」の二択しかない。

しかしまずは「歩く」ことに慣れるのは大事。僕は定期的に「歩く瞑想の会」ってのをやって、森や山を歩き、色々と交流する会があるので、ご興味ある方はぜひ参加されたし。

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☆ イベント予定。
9月25日(日) 歩く瞑想の会  in 鎌倉 満席
10月10日(月・祝)歩く瞑想の会 京都周辺 満席
10月23日(日)『声』女性性をひらく、めぐる音楽、音体験 東京(募集まもなく) 
11月上旬 探求クラブメンバー限定 リトリート
11月中旬 『声』女性性をひらく、めぐる音楽、音体験 大阪(予定)

☆ Youtubeチャンネル

☆ サークル「探求クラブ」(noteメンバーシップ)

☆ Youtube アーティスト・チャンネル 



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オオシマ ケンスケ
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