解放されたアートと勇士たち。 n.7 - もうひとりの英雄と、戦後の勇士たち。
ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。
これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。
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もうひとりの英雄
イギリス人のアントニー・クラーク。
1944年。彼は、ドイツ軍が駐留している、トスカーナ地方サンセポルクロ街に爆弾を投下する任務を受けていた。
爆弾を仕掛け、あとは発火するのみ。
作業前から、ずっと気になっていた。
サンセポルクロ街では、市の職員が、市立美術館の作品を守るため、砂袋を積んで壁を作るようにレジスタンスに協力を求めおり、砲撃から守るための最低限の準備は整えていた。無駄な祈りとは分かっていても、砲撃が中止されることを願わずにはいられなかった。
少し前、クラーク大尉は、思い出していた。
イギリスの著作家オルダス・レナード・ハクスリーの旅行記に「トスカーナ地方のサンセポルクロ街には、世界で最も美しい絵がある。」と記載してあったのを思い出していたのだ。
ここに、2つのエピソードが残されている。ひとつは、ドイツ軍はすでに街を去ったあとで、砲撃は無意味であることを交渉人により伝えられた。もうひとつは、犬を散歩していた少年に、ドイツ軍は街にいるのかと聞いたら「いない」と答えた。
真実がどうかは分からないが、中止をする理由にはなりえる。
爆弾が投下される日、鳥が平和にさえずり、気持ちの良い風が丘から吹きつける。
この日、爆弾が投下されることはなかった。
クラーク大尉が思い出した絵とは、サンセポルクロ出身のピエロ・デラ・フランチェスカ作のフレスコ画「キリストの復活」。数学学者でもあった彼が、完璧な比率により描いた作品である。
こちらもピエロ・デラ・フランチェスカの作品「多翼祭壇画の慈悲の聖母」。現在は、どちらもサンセポルクロ市立美術館に展示されている。
クラーク大尉の逸話が真実なのか、のちに議論されることになる。そこでBBCが本腰を入れて徹底的に調査をしたところ、この日のことが書かれている大尉の日記が発見され、ようやく、大尉の功績が公的に証明されることなる。
つながり
右へ左へと奔走した、美術史家。アルガン、ラヴァンニーノ、ロトンディ、ヴィトゲンス、ブッカレッリ、ガブリエッリ。彼らは同世代で、当時の年齢は、30歳〜40歳代。
ウルビーノのロトンディ、ローマのアルガンとブッカレッリにおいては、1944年にまだ35歳という若さである。
国立美術館の館長の職に就くためには、当時はローマのサピエンツァ大学ヴェントゥーリの美術史を学ばなければならなかったので、全員が同門である。
1943年2月に、芸術作品の避難を指示する大指揮者ジュゼッペ・ボッタイ文化政策大臣が国外亡命したあとも、宙に浮くことなく、作品を避難できたのは、彼らの横の繋がりが大きい。
本来ならフォーマルにお互いを「さん」づけするが、同期であり、友達でもあるので、呼び捨てで名前を呼び合う仲。家族同士も仲が良く、当時の子供達は、年を重ねた今もなお、交流を続けているそうである。
ここに面白いエピソードがある。
ラヴァンニーノとロトンディは、人種法と呼ばれるレッジ・ラツィアーリ(Leggi razziali)の書類を記載するために、一緒に事務所に呼び出される。人種(Razza)を記載する最後の欄でペンがとまる。
一番下のRazza(ラッツァ)記載の欄に、Bassotta(バソッタ)と記載されているのは、ダックスフンドのこと。「ダックスフンド=背が低い」。
このあと二人は呼び出され、こっぴどく叱られる。二人の関係を伺い知ることのできるエピソードである。
展示会の発表のときに、ジョヴァンナ・ロトンディさんが、父親のことを話してくれていた。
父親は朝早く出かけ、夜遅く戻ってくる。当時は携帯電話など、もちろんなく、外に出たら、家族に連絡する手段はひとつもない。ただただ、家に無事に帰ってくるのを祈りながら待つだけだ。
重い空気になりがちの、この状況で、第3回目に登場した妻のゼア・ベルナルディーニは、内心は気に病み、不安で仕方なかっただろうが、決してそれを表面に出さず、いたって普通に夫と子供達に接していたらしい。
偉大な男の影には、偉大な妻があるものだ。ジョヴァンナさんが、母親をこのように表現していたのが印象に残っている。ゼアのような女性が傍にいてくれたことは、パスクアーレ・ロトンディにとって、貴重な存在であり、大きな励みになったことだろう。
戦後の勇士たち
アートを守る勇士に身を転じた、館長達の戦後。
今回のシリーズに登場した美術史家たちは、自分の命を賭して、イタリアの宝を守るために懸命に奔走したが、戦後、彼らのこれらの活躍で出世した人物はひとりもいない。
第4回目で、アートの勇士達は、戦後、歴史から姿を消し、再び、名前が世に出るのは約30年後とお伝えした。
イタリアの魂を、イタリアのアイデンティティーを救った英雄達が、なぜこれほどの時間、表に出てこなかったのか。理由のひとつに政治的なものが挙げられる。
作品を救出した美術史家達の中には、ファシズム政権に迎合しなかった者が多く含まれる。規律を守らずに行動していたので、表に出ることはなかったと推測されている。
それでも、やはり、いつかは表舞台に出るものである。ラヴァンニーノの娘アレッサンドラさんが、父親の日記を1970年に書籍化したことで、戦後初めて、当時の事実を知ることになる。
ラヴァンニーノは『戦争で失われたイタリアのモニュメント50点』という題名で一冊の本を1947年に出版し、自らも再建に力を尽くしている。
パスクアーレ・ロトンディにいたっては、戦後35年が経ったあとである。
サッソコルヴァロの市長は、戦時中の様子を聞き知っていたが、文献が残されていないので、本当にそんなことがあったのか信じられずにいた。好奇心に惹かれて調べてみると、パスクアーレ・ロトンディという人物が関わっていたことを突き止める。
ロトンディは1976年からバチカン市国のシスティーナ礼拝堂の修復責任者になっている。すぐにローマへ赴く。
システィーナ礼拝堂から出てきた、ロトンディと思しき人物を見つけ声をかける。
振り返ったロトンディが、尋ねる。
サッソコルヴァロの市長であることを伝えると、その瞬間、ロトンディの目は優しく輝き、笑顔を向け挨拶をした。
戦後に木箱から開封した絵画で、ロトンディが梱包したものには、傷ひとつない完璧な状態であったという。
サッソコルヴァロ市では、1997年にプレミオ・ロトンディという機関を設立し、毎年、修復において功績を残した人物を表彰している。
「イタリアの歴史であり魂の一部である、芸術を守り抜く」という大きな使命を持ち、命を賭して戦火を駆けずり回った、美術史家の存在を知り、衝撃を受け、感動し、多くの方々に知ってもらいたいという気持ちが膨らみ、今回のシリーズが生まれました。
それぞれが別々に活動をしても作品を救うことはできたかもしれません。
ですが、美術史家達が一丸となり、「美術史家として芸術を守り抜く使命と、後世へ伝える責任」という、共通の目標を持ち、協力し合い、信頼し合ったことで、初めて偉業が成し遂げられたのではないかと、シリーズを書いていて感じました。
稚拙な文章で読みづらい点が多々あることは承知していますが、少しでも多くの方に、表舞台に立つことのなかった彼らの存在を知って頂けると嬉しいです。
最終回の掲載がとても遅れてしまいました。
もし待っていて下さった方がいらっしゃいましたら、大変お待たせして申し訳ありません。
どうもわたしは一点集中型のようで、
仕事のときは、そちらに全力投球してしまい、
その間は使い物にならないようです。
来週も仕事がずっと続くので、次回の更新は6月中旬になります。
「解放されたアートと勇士たち。」の番外編を書く予定です。
職人インタビューもしたいのですが、秋以降になる予定です。
最後までお読みくださり
ありがとうございます。
少し時間が空きますが、
またお立ち寄りくださると嬉しいです。
参考文献:
ARTE LIBERATA 1937-1947
https://www.youtube.com/watch?v=lexRv7JAVaY&t=2042s
https://www.youtube.com/watch?v=lexRv7JAVaY&t=2042s
https://www.youtube.com/watch?v=nEBUHDXWUew
Pasquale Rotondi il salvatore dell'arte
https://youtu.be/I5POv01SgBI
Patrimonio artistico italiano in divisa da guerra - Documentario
https://youtu.be/syKkZugjVBk
Emilio Lavangino
https://www.youtube.com/watch?v=jFLqPYg7fgE
Anthony Clark
https://www.youtube.com/feed/library
Wikipedia