解放されたアートと勇士たち。 n.4 - 砲撃をくぐり抜け車を走らせる。新たな救出作戦。
ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。
これは、戦時中に自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。
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朝日が昇る前の午前4時に、大学生になる娘をそっと起こした。さあ、わたしがいま言ったことを繰り返してごらん。
極秘任務なので、いまから行くルートを誰にも知られてはならない。万が一、自分になにか起きた時のために、娘に行き先だけを告げて、家を後にした。
エミリオ・ラヴァンニーノとウルビーノ。
軽自動車とトラック数台で、密かにローマを出発した男たち。リーダーの名は「エミリオ・ラヴァンニーノ」。パスクアーレ・ロトンディと肩を並べる、もう一人の主役である。
ラファエロやカラヴァッジョなど、有名な絵画を所蔵している、ローマの国立古典絵画館。ここの館長として就任していたが、反ファシズムを取る立場から、1938年に役職を解任させられる。
アルガンが申し出をした4日後に、バチカン市国が絵を保護することを承諾する。ラヴァンニーノは、救出作戦の任務を遂行しようとしているところである。
出発する前に、ラヴァンニーノはウルビーノにいるロトンディに電報を打つ。
その頃のロトンディは、八方塞がりだった。ウルビーノは、ドイツ軍が支配していて日中に車を出すこともできず、一度など、武器を運んでいると疑われ数時間投獄されたこともある。
落胆していたときに、ラヴァンニーノから電報が届く。思いもよらぬ救出計画に、喜びを隠せないロトンディは、いまかいまかと待ち続けるが、この日、ラヴァンニーノが姿を現すことはなかった。
ラヴァンニーノは、ウルビーノに到着するまでに、ナルニ、トーディ、ペルージャの教会の作品を見て周り、ローマへの帰り道に持ち帰るから、それまでに梱包しておくようにと司祭に声をかけながらの道中であった。夜はライトを消して運転し、慎重に前を進んでいった。
ウルビーノに到着したのは、翌日の朝である。ラヴァンニーノとロトンディは、大学時代の同級生で旧知の仲。「解放されたアートと勇士たち。n.1」の冒頭で紹介した、パスクアーレ・ロトンディの日記は、このときの様子を書いている。
ただしヴァチカン市国に運ぶ作品には、条件がある。『教会所有のみ』。
国所有の作品を保管することはできない。
前回、ドイツ軍がカルペーニャ邸へ来る前にロトンディが木箱に貼られている紙を次から次へと剥がしていったのを覚えているだろうか?
まっさらな木箱は、名無しの権兵衛。どれが教会所有で、どれが国所有かわからない。
結果、素知らぬふりをして、ふたりはウルビーノに避難してあるすべての作品をヴァチカン市国へ運ぶことに成功する。
トラックに積み、口頭でロトンディからラヴァンニーノに目録が渡される。ウルビーノを出発したのは、12月22日午前2時15分。雪の降る寒い夜だった。
一回目の輸送で積まれた作品は、全部で120点。ローマのボルゲーゼ美術館、ミラノのブレラ美術館、ヴェネツィアの教会所蔵、ウルビーノのドゥカーレ宮殿、そしてカラバッジョの作品。イタリアの国宝ともいえる、そうそうたる作品が搬送される。
このときロトンディが、ラヴァンニーノへ向けた言葉。
二人の絆を語っている言葉である。
エミリオ・ラヴァンニーノとローマ周辺。
ウルビーノへの危険な任務を終えたあと、ラヴァンニーノは、ローマ周辺の、荒廃した街から街へと、車を走らせる。
彼の軍用車は、フィアット社のトポリーノ。
ガソリンを闇市で仕入れ、 少数の仲間たちと作品救出に向かう。
ヴィテルボ、スートゥリ、モンテフィアスコーネ、バーニョレッジョ、オルビエート、アクアペンデンテ、ボルセーナ。ローマから往復で全長約400キロの距離である。
ヴィテルボに向かう上空に戦闘機が飛んできて空襲警報が鳴った。急いで車を隠し林の中に隠れたが、しばらくして静かになる。
ようやくヴィテルボに到着するや否や、また空襲警報が鳴った。今度は本当のようだ。慌てて身を隠す。
ヴィテルボに爆弾が落とされる。
静かになったので、ゆっくりと外に出ると、街に到着した時とはまったく異なる風景が目の前に広がっていた。屋根や壁が崩れ落ち、瓦礫が積もり、教会も半壊している。
呆然とするも、落胆している時間はない。気を取り戻し、足場が不安定のなか、彼らは埃にまみれながら、被害を免れた作品を必死に救出する。
一旦、ローマへ戻り、さらに旅を続ける。チビタ・カステッラーナ、オルテ、マリアーノ・サビーナ、サクロファーノ、モルルーポ、トレヴィニャーノ。前回と同じような距離を走行し、作品を救い続ける。
ラヴァンニーノは1枚でも多くの作品を救うべく、地方を奔走する。予備のガソリンがないので、5キロ走ったところで、トラックから軽自動車へと直接にガソリンを移し替えながらの移動。
爆撃された街では、車の整備士、運転手、司祭が、彼に協力をする。食べ物が手に入らず、丸1日食事ができないこともあった。
日記には彼の表現でGita (遠足)と呼んでいた、ローマ周辺の作品を救出する様子が記されている。
誰もいない静まり返ったフォンディ街での作業は10時間にも及ぶものだった。半壊した教会から作品を救出し、保護のために設置された鉄の柵が開かない教会では、柵をよじ登り、教会内で埃まみれになっている大きな絵画を運びだした。
鉄の柵は、侵入者を拒むように、先端が鋭くとがっている。よじ登るのも、絵画を救出するのも、至難の技で、作業は永遠に続くかのようだった。
そんな困難な作業のときに、絵の専門家でも責任者でもない、一般市民のラファエレ・パンノッツォが、戦時でお金がないのにも関わらず、無償でトラックを提供してくれ、砲撃のなか命を張って作品救出を手助けしてくれた。感謝の気持ちを言葉で言い尽くせない。
フォンディ街で鉄の柵を超えて救った1400年代の三連祭壇画。
救出された作品の原寸はこの大きさ。ラヴァンニーノ達の救出がいかに困難だったか、想像するに難くない。
トゥスカニア街から救出された1400年代の作品。「慈悲の聖母(Madonna della misericordia)」という名の作品。神からの試練を、マリアさまがマントを広げて守っている。
ウルビーノのパスカーレ・ロトンディも、避難していた作品がバチカンに保護されたあと、ラヴァンニーノと同様に、州を走り回り、教会に残された作品の救出に奔走する。もし自動車がなければ、ふたりとも自転車で走り回ったことだろう。
アルガン、ロトンディ、ラヴァンニーノ。この3人の多大なる功績は、マントを広げ守るマリア様のようである。それにも関わらず、戦後、彼らの名前は歴史から姿を消し、再び世に出るまでに、約30年という月日を待たなければならなかった。
次回へつづく。
次回は、イタリアを代表する街の、代表する美術館が、どのように作品を守り抜いたのかを案内します。
少し、疲れましたよね。クイリナーレ宮殿の美術館には、足休めにピッタリの素敵なカフェがあります。
大統領官邸が目の前なので、休憩時間にお茶をする警察官と一緒になりました。
大統領官邸が目に前にみえます。
最後までお読みくださり
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「解放されたアートと勇士たち。」
連作で投稿しています。
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