解放されたアートと勇士たち。 n.2 - 開戦
ローマで開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」をもとに、美術館で鑑賞するのとは異なる、アートの歴史をご案内します。
これは、自分たちの命をかけて、アートを守る勇士に身を転じた、美術館の館長達の物語です。
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1940年
マルケ州の美術館や芸術作品の責任者で、美術史家でもあるパスクアーレ・ロトンディの管理下のもとに集められた作品は、ウルビーノのドゥカーレ宮殿の地下に保管されるが、宮殿の周囲に多くの軍隊がいるのが気になる。
イタリア軍が武器庫として宮殿を利用していたのである。
芸術作品の保管場所として宮殿が利用されているのを知っているのは、ごくわずかな関係者だけ。
ロトンディは、車を走らせマルケ州で宮殿に代わる場所はないか、探し始める。
ウルビーノから車で40分ほど内陸にある、サッソコルヴァロ要塞。ルネッサンス時代にウルビーノ大公の命により建設された建物。
小爆弾に耐えうる頑強な要塞。地下の通風口は風を通すので作品が湿気で劣化する心配もない。
窓はすべてレンガで覆い、攻撃されたときに破片が入り込まないようにする。防火と盗難防止の装置を設置し、緊急事態にサイレンを鳴らさなければいけない時は、電気が通っていないので、手動でハンドルを回せるようにする。
1940年6月8日
こうしてサッソコルヴァロ要塞は、パスクアーレ・ロトンディにより、最重要作品の避難場所となり、ウルビーノの宮殿より移されることになる。
展示会場では、木製の箱で搬入された当時の状況を再現するために、べニア板で壁を覆い、パスクアーレ・ロトンディが選び抜いた作品が展示されていた。
1940年6月10日
イタリアが戦争に参戦。翌日の11日には、イタリアに最初の爆弾が投下される。
6月8日に要塞に作品を移し始めた、その3日後には、イタリアは戦火の国となる。
夜を待ち、暗闇に隠れたトラックが、要塞へと向かう。
宮殿の地下に保管していたら消失していたかもしれない世界の至宝は、パスクアーレ・ロトンディの直感により、救われる。
1940年6月14日
ドイツ軍がパリへ侵攻。
サッソコルヴァロ要塞には、マルケ州のみならず、ヴェネト州からも作品が移され、ベニスのアカデミア美術館から避難してきた1300点のなかには、マンテーニャ、ティツィアーノ、ジョルジョーネといった、ルネッサンスを代表する巨匠達の作品も含まれていた。
1941年
戦争はさらに悪化し、ドイツ軍はロシアへ侵攻。
1942年には、ヒットラーの後継にあたるゲーリングが、イタリア人骨董家ヴェントゥーラから『合法的に』イタリア絵画を購入。
1943年
1943年1月
カルペーニャにある、1675年に建設されたファルコニエレ王子の私邸が避難先として使われることになる。
ここには、ローマのボルゲーゼ美術館、コルシーニ宮殿、ヴェネツィア宮殿、国会議事堂モンテチトーリオ宮殿から作品が運ばれてくる。
ティツィアーノ、ラファエロ、ベルニーニ、カノーヴァ。西洋文化の至宝が、カルペーニャの私邸を避難場所としたのである。
1943年2月
戦争が起きる前の1938年に、全国の美術館館長に向けて、所蔵する作品を3つのグループに分けさせ、その保管方法の指示を出したジュゼッペ・ボッタイ文化政策大臣を覚えているだろうか。
彼は、政府への不服従により死罪を言い渡されるが、国外亡命をし一命を取りとめる。
ジュゼッペ・ボッタイ文化政策大臣の不在。これは、芸術作品の避難を指示する大指揮者を失ったことを意味する。
1943年3月
ゲーリングがさらにイタリアの16点の作品を『合法的に』購入。
1943年4月5日
シシリア島パレルモが攻撃され、作品は避難して無事だったが、美術館は完全に崩壊する。
1943年4月21日
ミラノのブレラ美術館の女性館長フェランダ・ヴィトゲンスが、カルペーニャの私邸へ87点の作品を運び込む。
1943年5月13〜15日
ベネト州の美術館や芸術作品の責任者であるヴィットリオ・モスキーニが、アカデミア美術館、カドーロ宮殿、サンマルコ寺院の宝物殿から、合計47点の作品をカルペーニャへ運び込む。
ローマ州の美術館や芸術作品の責任者であるアルド・デ・リナルディスも、ローマの美術館から作品をカルペーニャへ運び込む。
そのなかには、サンルイジ・デイ・フランチェージ教会と、サンタマリア・デル・ポポロ教会に展示してある、カラヴァッジョの作品も含まれていた。
何世紀もそこにあった作品に触れ、壁から外し、梱包し、彼の手に委ねられ、夜道をマルケ州の田舎まで運ぶ道中は、どんな気持ちであったろう。
もし我が身になにか起きたら、作品も無事ではいられないだろう。作品の価値を充分に知りつくているがゆえに、恐怖で背筋も凍る心境ではなかったろうか。
作品の価値を熟知している美術館館長や責任者が、危険を犯しながら作品を守ってくれたから、いま美術館や教会に足を運び、私たちは作品を享受できる。彼らの勇気ある行動に心からの敬意を表したい。
ミラノのブレラ美術館からカルペーニャに運ばれてきた作品のなかには、ピエロ・デラ・フランチェスカ作の「ブレラ祭壇画」も含まれれていた。
ラファエロ作の「聖母の結婚」も含まれていた。
中部から北イタリアにかけての作品の避難場所は、サッソコルヴァロ要塞やカルペーニャ邸。南イタリアの作品の避難場所は、ナポリから100キロほど北上したところにある、モンテカッシーノ修道院が選ばれる。
ナポリのカポディモンテ美術館、国立考古学博物館、サンジェンナーロの宝物が運び込まれる。
1943年7月25日
ファシスト党内でクーデターが発生しムッソリーニが失脚し、一時幽閉の身となる。
1943年8月
ローマを州都とするラツィオ州の作品の避難場所の安全が保障できなくなる。
戦争が起きたときにどう作品を守るべきか、1939年に話し合いをした二人の人物のひとり、歴史評論家であるジュリオ・カルロ・アルガン。
彼は、ヴァチカン市国に連絡を取り許可を得て、バチカン市国と繋がるサンタンジェロ城を避難場所にする。
1943年8月
ミラノが集中砲撃される。n.1に掲載した、ミラノのサンタマリアグラツィエ教会の崩壊がそれである。
8月21日
MFAA(Monuments, Fine Arts and Archives) が公式に誕生する。ドイツ軍により強奪された作品を奪回し、戦火から作品を守る、専門の機関である。アメリアのハモンド大尉が、イタリアによる最初のモニュメンツ・マン。
9月8日
CLN(Comitato di Liberazione Nazionale)国家解放委員。反ファシストが発足される。戦中最初のレジスタンスである。
10月13日
連合国に降伏したイタリアは、ドイツに宣戦。
10月14日
『芸術保護』を意味するドイツ軍の機関「Kunstschutz」の二人の兵士が、ナポリから作品が避難されているモンテカッシーノ修道院にやってくる。
『数日後にこの修道院を破壊する計画があるから、作品をすぐに安全な場所へ移すように。』と伝えられる。
作品を積み車を走らせていると、前方にドイツ軍が待ち構えている。後方にはトラック数台が停車しているのが見えた。
少しづつドイツ軍のもとへトラックが近づいていく。嫌な予感を拭いきれない。
予感は的中。強制的に停車させられる。
ゲーリングの側近が、トラックから作品を下ろすように指示し、梱包から取り出し、ひとつひとつ選別していく。
イタリア側は、目の前でなにが起きているのか分かっていながらも、なすすべもなく、自分たちの置かれている状況を眺めることしかできなかった。
選ばれた作品は、ドイツ軍のトラックに積み替えられ運び去られてしまう。
代表的な作品が、ルネッサンス時代を代表するヴェネツィアの巨匠ティツィアーノ作の「ダナエ」であろう。
ダナエに恋をした、ギリシア神話の最高神ゼウスが、金の雨になり、ダナエの寝室に入り込んでいる場面。柔和な色調でダナエの官能的な肢体と表情を表現している、艶のある作品。
「ダナエ」は、ゲーリングの私邸の寝室に置かれることになる。
10月20日
ドイツ軍がカルペーニャ邸を訪れる。
カルペーニャ邸は、パスクアーレ・ロトンディの管理下で、ローマから数多くの作品が運び込まれている場所である。
モンテカッシーノ修道院と同じ運命を辿ることになるのか!?
次回へつづく。
最後までお読みくださり
ありがとうございます。
今回は年代記のようになってしまいました。
次回はもっと人となりに焦点を当てたいです。
コロナ中にネットフリックスで放映されたスペインのドラマ「ペーパー・ハウス」。このドラマの中心に添えられていた曲がBella Ciao(ベッラチャオ)です。
ベッラチャオは第二次世界大戦中の対ナチスとして活動する、イタリアのレジスタンスに捧げられた曲です。
「ペーパー・ハウス」はわたしはシーズン2までしか観ていませんが、スペインの造幣局に立てこもった8人組の強盗団は、それぞれ生きづらい人生を生き、既成の社会に反抗する現代のレジスタンスとして、ベッラチャオが使われたのかもしれません。