巨匠の試し書き。 飛行する思考。 n.3
狭い階段を、足を踏み外さないように慎重に下りていくと、空気が湿気を帯びてくるのを感じる。床面に着いたので、顔を上げると、正面、右、左、背後。壁一面に描かれたデッサンが目に飛び込んでくる。
圧倒的な大きさや筆力に、唖然。何世紀も前に描かれたものなのに、デッサンからは新鮮な魂を感じる。
多くのデッサンは黒色で描かれており、わずかな部分が赤茶色。黒色は先端を尖らせた木片を火で焼いて木炭にしたものが用いられ、ある線は太く、ある線は細く描かれている。赤茶色は、十分に焼けきれなかった木片を使ったためらしい。
陰影は、手や布を使い、線を擦ることで表現している。
膝から下のデッサン。新聖具室にあるヌムール公とウルビーノ公の座る姿と似ている。
若くして命を落とした二人のメディチ家の墓廟を、ジュリオ・デ・メディチが、ローマ法王になり名前を改めクレメンス7世として、ミケランジェロに依頼している。
髭を生やした男性の頭。このデッサンから連想されるのは、1506年にローマで発見されたラオコーン像。
発掘に立ち会ったミケランジェロに、大きな影響を与えている。
だが、なぜ、フィレンツェの新聖具室の地下室に描いたのだろうか。
『La Stanza Segreta』の著者であり、当時の館長であった、パオロ・ダル・ポジェット氏は、弟子に図案を残すために描いたと解釈している。
ミケランジェロは新聖具室を製作中に、フィレンツェを離れローマへ移る。自分が不在のときでも、作業が進められるようにと、男性の頭部を描き残し、それをもとに、ミケランジェロとともに作業を行っていたモントルソーリが、聖コスマスを製作したと推測している。
聖コスマスは、聖母マリアと幼児キリストを中央に、左右に控えるメディチ家の守護聖人、聖コスマスと聖ダミアヌの一体である。
彼らの足元には、ロレンツォ豪華王と弟ジュリアーノが埋葬されている。
大きく描かれた女性の横顔。左側には女性の立ち姿。
『レダと白鳥』のデッサンであると考えられている。貴重な板絵の一枚だが、残念なことに現存しない作品。
どんな絵だったのだろう。メディチ家のお抱え彫刻家アンマンナーティの作品から伺い知ることができる。アンマンナーティは、ミケランジェロの『レダと白鳥』をもとに彫刻で製作している。
白鳥に変身したゼウスが、レダと関係を持つシーン。エロティシズムな作品。
フィレンツェのバルジェッロ美術館に展示されている。
新聖具室のジュリアーノ公の埋葬記念碑のために製作した『夜』にもポーズが似ている。
『レダと白鳥』は、1529年7月にフェッラーラへ赴いたとき、フェッラーラ公アルフォンソ1世から注文を受け、翌年1530年10月22日に完成している。
引き渡し時に、役目を仰せつかったフェッラーラ大使ヤコポ・ラスキが、ミケランジェロに対して慇懃無礼な態度を取ったらしい。
難しい性格として知られるミケランジェロ。己の感情を抑えて「はい、どうぞ」と大使に渡したであろうか。
答えは、否。
ミケランジェロは作品を渡さないことで応じる。
作品を依頼され、賃金や工賃で製作していた職人を、アーティストという地位に押し上げた、レオナルドダヴィンチ、そしてミケランジェロ。王侯であっても、大公であっても、彼らを思い通りにすることはできないのである。
フェッラーラ大使ヤコポ・ラスキは、どんな顔をしてフェッラーラ公国に戻り報告したのであろう。
『レダと白鳥』は、フランスへと赴く弟子のアントニオ・ミーニに贈ったところまでは分かっている。だが、ミーニが死去した後は、消息不明となってしまう。
狭い部屋に大きく描かれており、ひときわ目立つ人物像。比較的湿気からも免れたので保存状態がかなり良い。この壁の裏が階段になっている。
この大きな絵では、筆跡が手に取るように分かる。500年前とは思えないほど、生々しい。
この場所に立ち、同じ空間、同じ目の高さで、ミケランジェロが描いている情景を想像してみると、書籍から知るミケランジェロではなく、生身のミケランジェロを肌で感じ、ゾクっとする。
一筆書きでサッサと描いた粗いタッチなのに、体の構造や筋肉の動きがわかる。さすがは「筋肉命」のミケランジェロ。
新聖具室の壁面に作られた半円形の部分に、当初はフレスコ画で装飾する案もあったらしい。2.49メートルあり、この人物像は2.5メートル。ただの偶然なのか?いまとなっては、推測の域を出ないが、『復活をするキリスト』を描くための、下案がこの人物像ではないかと言われている。
こちらも、とても大きく描かれている。手前には、髪の毛を前に垂らし猫背でかがみ込む人物。後ろには、手前の人物とは対照的に、手を広げて背中越しから、なにかを見ているような姿。
手前の人物の動作に注目をしてみると、右手にペンを持ち、なにかを書いているようだ。
聖マタイが天使に霊感を受け、福音書を執筆しているシーンは、福音書を書いた四人の使徒のひとり、聖マタイを描く時に表現される。
参考までに、同じミケランジェロ続きで(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ)、カラヴァッジョの作品から。
ミケランジェロは、新聖具室の壁画に福音書の使徒を描く予定だったのかもしれない。
夜も眠れず悪夢にうなされ、食欲もなくし、生きる力を失いかけていたミケランジェロは、1532年に、彼の生涯において最も大切な人物のひとり、トンマーゾ・デ・カヴァリエリに出会う。
若きデ・カヴァリエリに、ミケランジェロは、自作の詩や絵を贈り続ける。「パエトーンの墜落」もそのひとつ。
この作品を描くための下絵とされるのが、こちら。
上の女性のポーズは、こちらのポーズともそっくり。
システィーナ礼拝堂の天井画の『原罪と楽園追放』。体の向きは逆になっているが、腰を下ろして体をひねるエヴァの姿と似ている。
さきほど紹介した『レダと白鳥』と同じ壁面に、大きく描かれた男性の後ろ姿。
システィーナ礼拝堂の天井画『天体と植物の創造」』で描かれた神の後ろ姿のよう。
同じくシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』の地獄側には、背中を見せた男性がたくさん描かれている。
いまはすっかり完成されたシスティーナ礼拝堂だが、天井画と壁画の『最後の審判』とでは、製作された年が異なり、前者は1508年から1512年。後者は1536年から1541年。
新聖具室の地下で描かれたデッサンは、ちょうど中間の時期に当たっており、アーティストの思考を垣間見ることができるようで、興味深い。
この指から想像するのは?
システィーナ礼拝堂の天井画『アダムの創造』。
過去に描いたものをベースに、次なる作品に繋げているのか。
階段を一段下りるごとに過去に戻り、地下の床面に到着したそこは、1500年代。小部屋には、炭化した木片を持ち、壁に一心に描いているミケランジェロがいるようである。
アイデアが生まれ、アイデアを形にするためにデッサンが描かれ、デッサンをもとにアイデアが熟し、ひとつの作品が完成する。
作品を生み出す巨匠の思考の場に居合わせているような、そこにミケランジェロがいるような不思議な感覚に包まれる。
これは、ミケランジェロの肖像画ともされている。
購入した書籍を読んで研究しているうちに、深掘りしてしまい、前回から随分と間が空いてしまいました。それにも関わらず、立ち寄ってくださいました皆様、ありがとうございます!
書きたいものが色々あるけれど、こちらのシリーズはあと少し続きます。
時間の捻出が課題です。毎日投稿している方々には、頭が下がります。わたしもそうなりたい!
この小部屋は隠れ家として使われていた説もあり、なぜ、そうなったのか。次回はミケランジェロの苦悩の物語を案内します。
次回はもう少し時間を置かずに投稿したいです。
またお立ち寄りください!!
最後までお読みくださり、ありがとうございました!!
次回につづく。
秘密の小部屋を発見したパオロ氏は、この書籍の作者で、当時の館長です。
今回の物語の参考書になっています。