巨匠の試し描き。 夢と苦悩。 n.4
秘密の小部屋のデッサンの大半は、1530年に描かれたと推測される。
なぜか?
発端は、1527年5月6日に起きるローマ劫掠。
このときのローマ法王はメディチ家出身のクレメンス7世。
ローマがすごいことになっているらしい。
ジュリオ(クレメンス7世)も逃げるのに奔走しているはず。
機を虎視眈々と狙っていた反メディチや共和国支持者は、数ヶ月前からスペイン王カール5世の大軍がローマに向かっている情報を得ている。ローマの劫掠は、フィレンツェへ直ちに届けられる。フィレンツェを統治していたジュリオの息子アレッサンドロと従兄弟のイッポーリトの両メディチは追い出され、フィレンツェは再び共和国に返り咲く。
やっと息を吹き返したのも束の間、2年後の1529年6月には、カール5世とクレメンス7世が和睦。
クレメンス7世は、ただちにフィレンツェ奪回に動きだす。
カール5世は皇帝。クレメンス7世は教皇。皇帝と教皇。当時の最大であり最強の二大勢力を前にして、フィレンツェは決断を迫られる。
クレメンス7世のもとメディチ家の統治を受け入れるか、負け戦になるかもしれないが己の意思を貫き通し決戦するか。
フィレンツェは最後まで戦い抜くことを決意する。
10代の頃にメディチ家のロレンツォ豪華王に才能を見出され、メディチ家に引き取られたミケランジェロ。のちのクレメンス7世であるジュリオ・デ・メディチは1478年生まれ。ミケランジェロは1475年生まれ。たった3歳しか違わぬ二人は、メディチ家の邸宅で10代をともに過ごしている。
だがいまは反メディチとして、ミケランジェロはクレメンス7世に真っ向から立ち向かおうとしている。
ここに至るまで、義父とも呼べるロレンツォ豪華王の早すぎる死、その後に台頭するサヴォナローラの存在などがあるが、ここでは割愛する。
ミケランジェロはフィレンツェ共和国の防衛指導官となる。
フィレンツェは丘に囲まれた盆地にあり、敵が城壁の外で陣営を組んでいる。
ミケランジェロは共和国を防衛するために、丘に立つサンミニアートアルモンテ教会の鐘塔に大砲を据え、敵からの攻撃に応戦する。
年が明けた1590年。フィレンツェ共和国は屈せずに対戦している。2月17日には、敵に包囲され、兵糧生活を強いられているにも関わらず、サンタクローチェ教会で古式サッカーを開催する。
包囲されているのをものともせず、まるで敵を嘲笑するかのように、選手は戦い、観衆は声援を送り、彼らの声は包囲する敵陣にも聞こえたに違いない。
洗練された皮肉屋のフィレンツェ人の気性は、すでにこのときから培われていたようである。
1530年8月12日。運命の時がやってくる。
三万人の犠牲者を出したフィレンツェ共和国は教皇軍に降伏する。
軍隊が入ってきて共和派が処刑される。防衛指導官であるミケランジェロも当然のことながら有罪である。
連行するため軍隊がミケランジェロの住まいに押し入り、部屋の隅々、暖炉の中まで探したが、どこにもいない。
城壁の外に出ることは不可能だから、絶対にフィレンツェのどこかに隠れている。
フィレンツェの街中でミケランジェロ探しが行われれる。
その頃、指名手配中のミケランジェロは、サンロレンツォ教会に身を潜めていた。
だれが想像したであろう。
サンロレンツォ教会は、メディチ家本宅のすぐ後ろにあり、老コジモなど歴代のメディチ家の先祖が埋葬されているメディチ家の菩提寺である。敵陣のなかに潜り込んでいると言っても過言ではない。
メディチ家に長年仕えていたサンロレンツォ教会の修道院長ジョヴァン・バッティスタ・フィジョヴァンニは、ミケランジェロの良き理解者で良き友人でもあった。
フィレンツェ共和国が降伏する前夜もしくはその日に、ミケランジェロは密かにサンロレンツォ教会に身を隠す。
新聖具室はサンロレンツォ教会の一部であり教会内で繋がっている。
一緒に戦った勇士たちが処刑されるなか、いつかは我が身と想像し、なにもせずに身を潜めていては、気が狂ってしまうであろう。
ミケランジェロは一心に紙とペンでデッサンをしていたのかもしれない。そのうち紙が尽きてしまい、それでも、描かずにはいられない。新聖具室の地下に行き、壁を紙の代わりに、炭で焼いた木片をペンとし、描き続けた。
それが、1975年に発見された秘密の小部屋である。
ミケランジェロはどこに隠れていたのか、しばらく謎に包まれていたが、サンロレンツォ教会の修道院長ジョヴァン・バッティスタ・フィジョヴァンニの書簡が発見され真実が明かされる。
いつまでミケランジェロは身を潜めていたのだろう。
1530年10月22日、前回案内した『レダと白鳥』を引き渡すためにフェッラーラの大使と会っているので、約2ヶ月間ということになる。
クレメンス7世が、ミケランジェロに「メディチ家の墓の制作を続けるならば命を助ける。」という内容の親書を送る。
これを聞いたミケランジェロは隠れ家から出て、クレメンス7世の命に従い新聖具室の制作を再開する。
このときのミケランジェロの気持ちはいかなるものか。
敗戦し仲間が処刑されている間、死の危険に晒されながら身を潜め、クレメンス7世の前にひれ伏すような形で、反メディチの自分が、いままたメディチ家の墓の制作に取り掛かる。
冷たく光る月を表したかのような、新聖具室の『夜』の寓意像。
ケシの実とフクロウ。ケシの実は眠気を誘い、フクロウは夜の鳥。
悪夢に苛まされていたミケランジェロにとって、夜は魔の世界。
敵であった親メディチの政治家からも作品を依頼される。身の保証を交換条件とし罪を許されたミケランジェロが、それを否定することはできなかった。
罪の意識に苛まされ絶望の淵に立つミケランジェロは、ノミを持つ力がどこにあるのだろうかと思うほど痩せ衰え、夜は悪夢に苦しみ、友人達は心配そうに見守っていたが、彼らにはどうすることもできない。
新聖具室の秘密の小部屋のデッサンは、ミケランジェロの人生のなかで最も悲劇的な時期に描かれたものなのかもしれない。
次回につづく。
今回の話しにも登場してきた「サンロレンツォ教会」は、ロレンツォ聖人を祀る日。今日8月10日はロレンツォ聖人の日です。フィレンツェでは、ミケランジェロが身を隠したサンロレンツォ教会で、聖人を祀る祝典が執り行われます。
次回が最終回になる予定です。次回もお立ち寄りくださると嬉しいです。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!!
秘密の小部屋を発見したパオロ氏は、この書籍の作者で、当時の館長です。
今回の物語の参考書になっています。