正論という言葉に対する反抗心を文章に落としてみた
現在参加しているメンバーシップ「エッセイのまち」で毎月開催中の「今月の募集テーマ」にフォーカスした記事(エッセイ)です。
テーマは「大切にしている言葉」ということで、これは複数あり、時期で変化しているのですが、最近思うことを踏まえて、こちらの言葉を贈ることにします。
結論から言うと「正論」に対する反抗です。正論は理屈として正しいから正論と言う訳ですが、それはその場の貢献にはならないと思います。それを総括しまして「正論は誰も救わない」を心に留めています。
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正論は誰も救わない
これは「大切にしている言葉」と言うより「大切にしている考え方」の方が正しいかもしれません。タイトルの通り「正論は誰も救わない」と日頃から思うタイミングが多いです。
世間では論破できることがすごいとか、取り沙汰されることがあります。ディベートの場に限れば、確かに必要なスキルだと思います。論破の際の論理的な根幹に値する話が正論だと認識しています。
正論はテーマに対する結論として論理的に正しいから正論と言う訳ですが、それは直に相手に受け入れられることで、本当の価値を発揮します。
論理的に正しくても、相手に嫌な気持ちを植え付けてしまえば、その正論は価値を発揮できない。その場(相手)の感情として、単に嫌悪感を残すだけです。
この「正論は誰も救わない」という言葉は、そういう思いをした経験が作り上げた、まさに経験則です。相手の感情を考慮に入れた上で、きちんと結論(決着)を見出そうとする姿勢がだいじだと思います。
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正論とは異なる貢献手段
私は頭の回転が遅い方であり、高圧的なプレッシャーも苦手なので、例えば「ディベート」という場はいつまでも慣れないです。
昔は自分が頭が悪い部類と考えていて、コンプレックスを感じていました。現在は思考の早さよりも深さを重視していて、それを場(全体)に如何に貢献するかを考えたりします。
自分の特性を効率的に発揮するための手段だと捉えています。自分のその場の思考を土台にして、全体の答えにどのように寄するのか。そこで必要なのは、単に正しいだけの「正論」とは別次元のことだと思います。
世間で持て囃される正論は、現実として個人的にあまり重要ではない。その場(全体)が納得感を持てるような答えを出すことの方がだいじ。
その場(全体)で形成される雰囲気を自分はだいじにしたいです。それを踏まえて結論を出すためには、感情を無視した上で論理的な正論ではなくて、納得感の持てる別視点からの答え。
これが正論に抗おうとする、私なりの結論です。
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おわりに
自分なりに建設的な議論を考えてみた時に、正論とは何だろうということを考えることが過去にそれなりにありました。
今回は自分がだいじにしている言葉ということで、あえてアクティブな雰囲気ではありますが、自分なりの主張も兼ねて、この話をしてみました。
論理的に考えて正論を導き出すことはだいじですが、それが感情も含めて良い形で受け入れられるかは、別問題と考えています。その上で「正論は誰も救わない」を心の留めながら、議論に引き続き参加していくようにしたいです。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。この記事があなたの人生の新たな気づきになれたら幸いです。今後とも宜しくお願いいたします♪♪
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