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話す聞く書く読む話

 こんばんは。深夜なので。お久しぶりです。
今日は、ぼやきです。

 1ヶ月かそれより少し前に、このノートを始めました。長時間おしゃべりしていることと、息をするかのように"つぶやく"こと、質はさておき量をとにかくたくさんアイデアとして出すことが得意な私に、ノートは絶対向いていると思っていました。よく思い出してみれば、それだけではありません。書くことも特段好きでした。いいえ、好きです。伝えたいことに対して、語彙をわずかに選び分ける瞬間が、言葉尻を色のわずかな違いのように変えていく作業が、とても好きです。

 しかし、むしろそれが不向きでした。正しくは、向いていなかった理由はそれだけではありません。話すというよりおしゃべりが好きで、質はともかく量はたくさん出せる私は、まとめることが苦手です。かといって、言葉の僅かな違いを、それこそひらがな表記か漢字表記かなんてレベルで違いを楽しんでいる私は、鈍感なわけではないのです。まとめられないし、それはきっとどこか不器用でガサツなのかもしれないけれど、滅法気にしないわけではないのです。

 話は逸れますが、多くの人は決めつけたがって、固定観念を心の拠り所にしています。だから、こういう因果関係が一筋縄ではいかない性格は、少しめんどくさくて、受け入れ難くて、形容できないのです。きっと。「あの子は片付けが苦手。鈍感だから。不器用でガサツだし。」そういう型にあてはめてしまえばラクなんです。でも目の前には、「私は不器用でガサツなんです。でも、繊細なモノがとても好きだし、整理整頓は苦手だけど好きなんです。」なんていう女の子が現れるんだから、むずかしい。これには相当悩みました。

 今となっては、「それが自分だから。笑」と割り切れます。それでも、書くことに妥協はできません。多少はできます。小見出しがなきゃ見辛い、太文字を効果的に使う方が見ていておもしろい。わかっちゃいるんです。あと3倍、時間をかければできます。しかし、今は自分の語彙や文法にこだわって、吐き出すだけで精一杯です。「魅せ方」を考えているうちに、半分くらいまで書きかけて諦められた下書きが増すようになりました。きっとこれも、中途半端な性格のせいです。一度はじめたのであれば、やり続ければいいのです。でも、実際今また私はこうやって納得のいく記事を書いています。だから、これでいいにはいいのです。それが私だから。

 とにかく、言いたいのは私にとってノートは案外向いてなかったってことです。書くことには思い入れがあります。話すことも好きです。考えることなんて、言うまでもなく好きです。だから結構向いてると思ったんだけど。いや、もしかしたら何時間も、軽く半日、1つの記事にかけることは正解ではあるのかもしれない。ただ、それは今の私にとって、1番大切なことではなかった。やっぱり、「書く」のは魂そのものみたいなところがあります。それほど強い思い入れです。だからこそ、そこに記事としての見やすさや人を惹きつけるなにかを散りばめることにそれほど価値を見いだせないのでしょう。そんな風に、自分の考え方や生きる姿勢をすこし芸術視しているからこそだれにもなにも伝わらないのだと思います。文字の表記にまでこだわって、行間、句読点、文末。ただの記号じゃないんです。本当にぼやきでした。

 それでもやっぱり、伝えたいこと、伝える目的が1番であるもの、はあります。自分を責めたりはしません。いまはそれほど弱ってはいません。でも、見つめて考えてみたいなと思います。

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