「望み」を読んで ※一部ネタバレ注意
いつもは外泊しても朝帰ってくる息子が夕方になっても帰ってこない。そんな心配をしている矢先にあるニュースを耳にする。
縁石に乗り上げ、身動きが取れなくなった車から2人の少年が逃走し、残された車から1人の少年の遺体が見つかったという。しかも、遺体で見つかった少年は息子の友達らしい。さらには亡くなった少年の周りで息子を含めて3名の少年が行方不明になっており、被害者はもう1名いるという噂もあると言う。
そんな事件から石川家は事件の当事者家族として巻き込まれていくことになる。
凶悪犯罪の加害者であってもいいから息子には生きててほしいと願う母と自分の息子がそんなことするわけない、被害者側だと願う父。2人の意見は対立する。
私自身は未婚で子どももいない。親の立場に立ったことはないが、この本には考えさせられるものが多くあった。
母親は息子が生きていることを望むが、父親は息子が加害者ではないことを望む。どちらも親として正しい望みであるだろう。しかし一方で息子が生きている=殺人犯、息子が加害者ではない=被害者(亡くなっている)ということを意味するのだ。自分の兄弟がこの息子、規士のような立場になったとして私がどちらを望むのか、本を読みながら考えさせられた。しかし、どちらかを主人公家族のようにはっきりと望めるとは思えなかった。強いて言うなら娘の雅のように加害者じゃないといいなと思うかもしれない。でも、それは自分の子どもがそんなことするはずがないという気持ちよりも雅のように自分に影響が出て欲しくないと言う思いからだろう。こう言った考えになるのはきっと自身が子どもを持っていないからに違いない。一登、貴代美、雅それぞれの望みにはそれぞれの立場や背景が色濃く反映されていると思う。
自分の息子が人を殺すわけないと信じる一登。息子を信じる一方で被害者の親族と仕事で繋がりのあり、息子が加害者で有れば仕事も無くなってしまうかもしれないと言う思いや不安感がある。
たとえ加害者であったとしても息子には生きていてほしい。生きてさえいればなんとかなると信じている貴代美。やはり母は強いと感じた。自分がお腹を痛めて産んだ子をそんな簡単に死んでしまったなんて思いたくないのだろう。どんな代償があろうとどんなふうに世間から見られようと生きて帰ってきたからには規士を立ち直らせると言う決意にただならぬものを感じた。
そして、雅。雅は受験生の中このトラブルに巻き込まれてしまう。親族から犯罪者が出れば志望校に行けないかもしれない。そんな不安から兄である規士が被害者側であってほしいと思う。
わたしが家族から規士のような子が出た場合、雅のように被害者側であることを願う気がするのはきっと世間の目や仕事への影響、将来への影響を考えてだと思う。子どもを持ったことないわたしには生きていればやり直せる、支えてみせると言うような貴代美のような決意は持てないだろう。
この物語でそれぞれが持つ「望み」それに正解はないし、何を望んでもいいのだと思う。それと同時に加害者家族に待ち受ける困難や被害者家族が受ける心の傷そう言ったものを強く反映した作品であると感じた。事件が起きるたびに加害者の人物像についてインタビューされ、ニュースで流される。それを視聴者はそのまま捉えてしまう。「望み」でもインターネットの掲示板に規士について周りの勝手な意見が書かれたり、テレビでのインタビューから犯人だ。などと決めつけるような人たちも出てきていた。しかし、加害者家族が必ずしも悪いわけではない。守られるべき存在でもあるのだ。石川家は被害者側か加害者側かと言うこの問題に直面して初めてこのメディアの問題に触れただろう。そして、問題はこれは他人事ではないと言うことだ。読者自身にも降りかかり得る問題なのだと言うことを忘れてはいけない。