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どんな顔で生きる

先日、ずっと積ん読になっていた大崎善生さんの「聖の青春」を読みました。羽生善治さんと同時代を生きながら、1998年に29才で亡くなり、その個性的な将棋の指しぶりから「怪童」と言われた村山聖(さとし)棋士。その生きぶりを、将棋雑誌の記者だった筆者が書き綴ったノンフィクションです。
幼い頃からネフローゼという重い病気と闘い、床に伏せりがちだった村山棋士が、その病床で唯一命を燃やせたものが、将棋でした。
看病にくる母親に次々と将棋の本をねだり、その世界に飲み込まれ、動ける時間のほとんどを将棋に費やし(漫画や本も愛していたようです)、強者たちを次々と下して、17才でプロになります。
晩年まで入退院を繰り返しながら、「名人」の位を目指して、病魔を振り払いながら、歯を食いしばって戦い抜くその姿に、29才で亡くなるという結末を知りながらも、「どうか神様、この人に時間を、夢を」と祈ってページをめくらずにいられませんでした。

私が本を読むことが好きなのは、本を読むことで、全く違う人生を歩くことができ、見られないはずの風景をありありと見ることができるからです。
フィクションでも、ノンフィクションでも、その中の人がどう生きて、どのような最期を迎えるのかをありありと描いた本は、人生の中でも忘れることのできない記憶となるものが多くあります。

たとえば、遠藤周作の「王妃マリーアントワネット」、司馬遼太郎「燃えよ剣」、有川浩「旅猫リポート」、以前にnoteでも書いた木皿泉「さざなみのよる」、小川洋子「ことり」…

ふと家の本棚をみたらこんな本たちが思い出されました。

言葉を選ばずに言うなら、いかにこの世を去るか、いかに死ぬか、にその人の人生がありありと映るような気がするのです。
それは身近な家族を見ていてもそうで、人を愛した人は人を想い、志のあった人は志を最後まで追い、決意の人は決意の中で亡くなっていくような。
もちろん報われることばかりではありませんが、それでもそのとき、それぞれの人の眼に、何が映るのでしょうか。

4年前(もう4年?!)のNHK連続テレビ小説「おちょやん」で、主人公千代の父テルヲが「朝ドラ史上最低の父親」と話題になりました。
(おちょやんのネタバレが嫌な方は次の段落は読み飛ばしてください)

お金と女性とお酒にだらしなく、幼い千代を借金の返済の代わりに奉公に出したテルヲ。千代が大人になってからも、嘘を重ねてお金を借りに来たり、迷惑をかけてばかり。そんなテルヲも病で死が近くなったことを知ると少し改心して、娘のためになることをしようとするのですが、最後は、借金取りと揉めて、千代にも見放され、留置所で千代の幻を見て微笑みながら孤独に亡くなっていきました。

「聖の青春」のなかで、主人公の村山聖さんの亡くなり方もまた、その短くも熱い人生が将棋とともに、将棋のためにあったことを表すものでした。
(詳しくは読んでいただきたいので、書きませんが)

人は死ぬ時、何を思うのだろう。
成さなかったことを、思うのでしょうか。
積み重ねてきたことを、振り返るのでしょうか。
愛した人を思いやるのでしょうか。
愛された人をおもいだすのでしょうか。

そのことを思うたび、せめて自分に嘘はつきたくない、目の前の人にきちんと向き合いたい。人を愛して信じていたい、志を無くさずにいたい、とまた思わずにはいられないのです。

でも日常は、本当にさらさらと過ぎていきます。毎日なにも考えなければ、画面の中の刺激となんとなくの気持ちで前に進めてしまいます。
ごまかそうと思えば、その場はなんとなく過ごせてしまう日もあるのです。 

リンカーンの言葉に「40を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という有名な言葉がありますが、毎日の選択が、自分の明日をどう生きるかに繋がっていて、少しずつ自分の顔を、背負う空気を形作っているんだと少しでも頭に、心にとめておきたいなと思います。
不誠実そうな、歪んだ顔には、なりたくない。

そんなわけで今日は少しでも前に進むべく、習い事を2つ再開させた私でした。
学べ、笑え、愛せ、信じろ、動け、ひらめけ、正直であれ、私。

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