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第三章 近代合理主義からキェルケゴールまで『現文十五の階段』

レオナルド・ダ・ビンチの「モナリザのほほえみ」という絵画をしらないひとはまずいないでしょう。どこからともなくにじみでるほほえみです。「モナ」は婦人、「リザ」はエリザベッタの愛称であるなどということはどうでもいいことですが、しかし、あの絵画のうしろの風景をよく見たひとはいるでしょうか。ものすごく暗い、どんよりとした森のようなのです。ダ・ビンチの活躍した時代はルネサンス時代です。では、あの絵画の象徴するものはなんだったのでしょう、管見でもうしわけありませんが、まずは、欧州の歴史からもうしあげてゆきます。
 
ヨーロッパの歴史をおおきく、三分すると「古代」「中世」「近代」と分類されます。
まず、古代ですが、あのギリシア神話のうまれた時代、人びとにも自由や生きることへの思考がさかんな時代でした。そもそも、その時代はなんなのか、ということはいまの時代、令和の時代でもじつはわからないものです。いま、わたしたちがどんな時代を生きているのか、その時代のレールに乗っているひとは、偏見やバイアスによってゆがんでみえてしまいがちです。そこで、どの時代もそうなんですけれども、劇画や物語や神話に、その時代を投影させて、すこし離れたところから「いま」を見つめようとしてきました。ギリシア神話もそのような事情で語られたのではないでしょうか。じぶんを含む風景を他所からながめることをヘーゲルというひとは「自己意識」と呼びましたが、ギリシア神話もけっきょく自己意識の発露だったのかもしれません。
また、ハイデガーは、この古代ギリシアこそ「存在」を思考していた時代だと説きました。それはプラトン(前四百年ころのひと)より前の時代です。そして『存在と時間』の著者は、その後、思考が停止したと語ります。それが中世です。

中世という時代は、暗黒の時代とよばれています。キリスト教という一神教が支配し、王政が確立、専制政治の真っただ中です。絶対主義的封建制といってもいいですね。ですから、人びとは、キリスト教的価値観のもと、思考することすらしなくなり、だから、そのつらさを教会にもとめていました。しかし、権力というものは蕩尽するもので、けっきょく、この暗黒の時代も終焉をむかえます。
 
それが近代です。ようやく人びとにふたたびの自由がおとずれ、ものを考える、というごくあたりまえのことが日常にやってきたのです。「われおもうゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」とデカルトが高らかにうたったのもこの時代です。人びとは、キリスト教からの解放を手に入れ、その価値観、思考停止からも解放され、そこで理性を作動させます。その理性的なもののとらえかたを「合理」といい、この時代を近代合理主義の時代とよんでいます。そして近代合理主義の産物こそ「科学」でした。

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