【読解】 磯崎-Ⅰ_磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」
この記事の題名にもなっているテクスト、磯崎新+浅田彰「デミウルゴスとしてのAnyoneの断片的肖像」は磯崎-Ⅰ、浅田-Ⅰから磯崎-Ⅴ、浅田-Ⅴの合計10の断片で構成されています。これはまず1991年の『批評空間』第1期No.2に、その後1997年にNTT出版の『Anyone〈増補改訂版〉 建築をめぐる思考と討議の場』という書籍のpp.64-78に収められました。ぼくの記述は後者に依拠しています。
と大学の授業のガイダンスみたいなことを書いてしまいました。一番やる気のある初回でこういう話を聞かされると、もどかしいですよね。笑
すみませんでした。ではさっそく、本文を見ていきましょう。
第一段落
この様相までの経緯と現状が、この断片を通して語られます。
第二段落
ここで述べられているのは、中世での唯一者the One が神だったということです。the One とは、何かを決めるとき、何かをつくるときに従うべきものです。それは行動の指針のような、あるいは目的、基準といえるでしょう。
なぜ神なのか?
それは世界の創造主は神であり、神の似姿として創ってもらった私たちも神に従ってつくるべきだと信じられていたからです。そのことを「テオモルフィズム(神像形象主義)が世界を支配していた。」と表現しています。
第三段落
中世より後の時代のルネサンスで、神が人間に置き換わったといいます。それ以来、建築も人体の大きさと比例関係にある寸法に基づいて設計されるべきだといわれるようになりました。
人間が世界の中心に置かれたのです。これを「アントロポモルフィズム(人像形象主義)」と表現しています。これが否定されたとは、今日のわたしたちでも受け入れがたいでしょう。実際、磯崎が「今日にまで西欧の思考に深く根をおろす」と指摘するように、西洋化した私たちの現代社会にも深く根をおろした考え方なのです。
中世からルネサンスに移り、以上のようなthe One の置き換えがあったのですが、それが存在していることに変わりはありません。
第四段落
しかし人間が思考を進めていくと、人間自身をthe One として存在させることそのものを疑うようになります。そしてthe One を根拠にした世界の考え方「そのような中心性をもつ世界像」を疑うことを「分断」と表現しています。この段落は、最低限そう理解しておきましょう。
第五段落
the One の存在が信じられなくなったとしても、つくることが仕事の者たち、つまり「そのなかにいて、相変わらず形象の産出作業に従事する者たち」は、どうすればいいのでしょうか。
ここでthe One に対比させて「anyone」という英単語が現れます。
Does anyone here speak English? 誰か英語を話せる人はいますか?
というように、anyone の場所に誰が入るかは、英語を話せる人が誰だかわかるまで決められませんし、英語を話せる人the One はいないかもしれません。つまりthe One の存在も怪しく、それが誰かも決められないとき、anyone と呼ぶことで、それが誰なのかを保留しておくほかないのです。
磯崎は「そのなかにいて、相変わらず形象の産出作業に従事する者たち」を、ギリシア神話のなかでいまいち役割がよくわからない、しかし一応つくることが仕事の者の名「デミウルゴス」と呼んでいます。このデミウルゴスという名は、自分が何のために存在しているのかわからず、保留しておくしかないanyone と似ています。
建築家は何のために存在しているのか?何をつくるべきか?
この問いの答えも、今のところ、建築家をanyone あるいはデミウルゴスと呼ぶことで、保留しておくしかありません。この状況は、磯崎の生きた時代だけでなく、私たちの生きる現代でも問われ続けているはずです。
そのanyoneの位置でしかつくることができないとき、建築家をはじめとしたつくり手たちのつくるものを「デミウルゴモルフィズム」と呼ぶことができます。これはデミウルゴス形象主義とも言い換えられるでしょう。
ではデミウルゴモルフィズムとしてつくられるものは一体何なのでしょうか?
この概念の断片的な身元情報が、以後扱われることになります。
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