深層心理ではこう思っている、けど体裁やプライドを気にしたらとてもじゃないけど言える内容ではない。そんなことを代弁してくれる人間こそ人気が出るのだ。 YouTuberでもブロガーでも漫画家でも何でもそうだと思う。「私はこのくらいやれる!描ける!なぜならば私はこの人間(作品)に共感できて、同じようなことを考えてるからだ!」、と思わせるくらいがちょうど良いのだ。言語化能力や喋りの上手さなどは一旦置いておいて、飛び抜けて頭が良くない限りその人だけが考えついた唯一の思考なんてもの
SNSにどっぷりしていた時代、時々現れるいかにも頭の冴えてる女子高生をどことなく尊敬していた。先程久しぶりに見かけたが、もうほとんどアカウントに浮上してないようで。ツイートをざっと見返したのだが、「うお、小説いっぱい読んでそうな文章ですげー」というアホみたいな感想が出た。
友人と映画を見たあとの空気感が気まずい、なんてのはよくある話だ。しかしその状況が作りだされるのは映画がなんとも言えない出来だったとか気のある相手のご機嫌をどう取ろうかだとか、作品やコミュニケーション由来の気まずさであることが多い。もちろんそのきらいもあるのだが、私は隣で同じものを見ていた人間がどんなことを感じたか知りたくないし、知られたくないのである。 そもそも映画館という構造があまり得意ではない。同じものを見に来た人間たちが、それぞれ全く違うものを抱えて映画館をあとに
とうの昔ヒッキーだった頃、(引きこもりのことばかり書いて申し訳ないが、noteらしい実のある話がこの時期に集約しているのである)まあ所謂不登校だった訳だが、周りの同級生から「羨ましい」「ずるい」など言われていた。ずるいと思うならキミも休めばいいのにと思っていたし今も思っている。流石に、家族が許さないだとか怠惰と体裁を天秤にかけた時体裁が圧倒的に優位な人間が大半であるということを今は理解できている。私だって無償で休んでいた訳ではなく、空白に近い2、3年間と親への多大な罪悪感と
最近眠れない夜が続いている。引きこもり時代の不眠が酷かった時期、「本でも読んでたら眠くなるさ」と父親に執拗に言われていたアドバイスを思い出す。当時は素直に従ったことなどなかったが。昨日それを実行してみたら、どうやら本を読むと興奮してしまうタイプのようで、逆に本のせいで更に不眠が悪化してしまった。いや、寝床のお供に続きが気にならないわけが無い推理小説を選ぶ私も私なのだけれど。しかし父は星新一などそれこそ1作読み終わったらまた1作と止まらなくなるようなものが好きだったはずなのだ
1つ新しいものに手を出してしまうと、芋づる式に趣味が増えてしまうものである。創作という大きな括りの中で、大体は見る側と作る側どちらにも手を出すことになるのだが、ジャンルが増えていってしまっては尽く時間が足りなくなる。 まるで小説を読まずに過ごしてきた思春期、1年前ようやっと推理小説に目ざめ、また今読書にふけっている訳だが、中学の頃から文章を書くということにずっと憧れだけがあったのを思い出す。文章に触れない生活を送ってきたせいで文の上手さは人並み以下であるが。そこで、何も小説
noteを使うのは初めてなので緊張しております。 久しぶりにブログを始めたくなったので開設してみました。いつまで続くかは分かりません。現に今年の頭に出たコミティアのレポートが書きかけで下書きに溜まっていることからこのブログの未来が既に見えている気がしますが。 特段今書くこともないので、丁度引きこもりをしていた時期の文章を載せてみます。6年前とか? 暇すぎて(というか寝すぎて)夢日記を書いていた頃の駄文です。おばかな夢しか基本見ないし占いの類も信じていないので夢