守られるべき主観
友人と映画を見たあとの空気感が気まずい、なんてのはよくある話だ。しかしその状況が作りだされるのは映画がなんとも言えない出来だったとか気のある相手のご機嫌をどう取ろうかだとか、作品やコミュニケーション由来の気まずさであることが多い。もちろんそのきらいもあるのだが、私は隣で同じものを見ていた人間がどんなことを感じたか知りたくないし、知られたくないのである。
そもそも映画館という構造があまり得意ではない。同じものを見に来た人間たちが、それぞれ全く違うものを抱えて映画館をあとにする。その事実が、自分が抱えたものをつい隠したくなってしまうのだ。作品とは鑑賞者がいて初めて成り立ち、その捉え方というのは鑑賞者によって違うべきという考え方には全く同意である。しかし、作品を見終わってまだ抱えたものが柔らかい内に、口々に作品の感想から野暮な想像までが聞こえてくると、柔らかいそれがボコボコと変形してゆくのだ。抱えてるものが違うからこそ、孤独にそれを固める時間が必要なのだ。
友人と映画の感想を言い合うことは、その抱えたものを見せ合いっこし、互いにボコボコにする行為なのである。箱を俯瞰で覗くように全体を見渡し客観的な材料を元に、技法や意図について議論するといったお堅いものなら歓迎なのだが。なぜならば客観的なものというのは変形しないからだ。いくらボコボコに殴りあってもそこに事実として居座っている。だから私が映画の感想を述べる時に、まるで映画の途中でつい寝てしまったのでWikipediaを読んで補完したんじゃないかと思われる語り口でベラベラと喋り始めた時は、君の柔らかいテリトリーに踏み込むつもりは無いよ、という優しさの牽制であることを誰かに理解して欲しい!(無理な話である)