【短編】 ガラスのコップ
僕は小学校低学年のころまで祖父母の家で祖父、祖母、父、母、姉、弟と僕を合わせた7人で暮らしていた。
楽しかったのかそうでなかったのかはあまりよく覚えてはいないのだけど、弟が死んだあの日の家の混乱状態や、それから母が姉と僕を連れてあの家を出るまでの重苦しい息が詰まるような空気を鮮明に覚えているので、たぶんそれまでは平穏な生活をしていたのだろう。
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「よくきたねぇ」
門の横にあるチャイムを押してしばらくすると、玄関の扉が開いて中から祖母が顔を出した。
「うん。久しぶり」
「本当に大きくなって。ほら、あがって頂戴」
祖母に促されるまま僕は玄関の中へ足を踏み入れた。この家を出てから15年。その間祖父母との交流は一切なく、この家のある町に来ることも一度も無かった。そんな僕がこの家に来ることになったのは、ポケットの中にある不格好な小さなガラスのコップが祖母から送られてきたことが発端だった。
「あのさ」
靴も脱がず、そう口を開いた僕の言葉が聞こえていないのか、祖母は廊下を先へ先へと進んでいく。
「ねえ。おばあちゃん」
少し大きな声を出して呼んでみても祖母には聞こえていないようで、居間へと姿を消してしまった。
「はぁ」
僕は大きなため息をひとつつくと、仕方なく靴を脱いで廊下にあがり居間に向って歩き始めた。見覚えのある廊下だけど懐かしいという気持ちはあまりせず、どちらかというと落ち着かない感じがするのは、出て行った状況が状況だったからだろうか。それともポケットに突っ込んだ僕の手に触れている、このガラスのコップのせいだろうか。
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祖父母の家。ぽつん・ぽつんと天井から不定期に落ちてくる水滴。雨漏りに気がつくと少し不機嫌そうになり家から出て行く祖父と奇妙なガラスのコップをその下に置き手を合わせる祖母。子供の僕の手でもすっぽりとおさまるくらい小さくて左右対称ではない濁ったピンクと水色の真ん中あたりの色をしたガラスのコップ。そしてそのコップがいっぱいになる少し手前で必ずピタリと必ず止まる雨漏り。
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この家に来たことで鮮明になっていく過去の記憶。そしてその記憶の中にあるガラスのコップ。そのコップはまさに今、僕の手に触れているものと同じもの。
どうして祖母は僕にこのコップを送りつけてきたのだろう。二十歳の誕生日といった節目の年でもなく、何かの記念日でもないごくごく平凡な日に、わざわざ配達日を指定してまで。それだけでなく、今日この家に来るようにと書いた手紙まで同封して。
「おばあちゃん?」
居間の前まで来た僕が部屋を覗き込むと、そこには両腕をダラリと下げ天井を見上げながら突っ立っている祖母が見えた。
「おばあちゃん?」
さっきの僕の呼びかけに反応しなかった祖母にもう一度声をかけてみたが、やっぱり祖母は反応しない。
「おばあちゃんてば」
祖母の顔を見ようと、祖母の身体を遠回りにぐるりと僕が回り込んでいるその時、視界の端の方で天井から何かが落ちてきたのをとらえた。
「ん?」
僕は足を止めて天井を見上げた。
「……雨漏り?」
そこには手のひらほどの大きさの染みがあり、その中心では未完成の水滴が今にも落下しようとしているところだった。
“ぴちゃん”
そして産まれたばかりの水滴はまっすぐに落下すると、祖母の口の中で水滴の大きさからは想像できないくらい大きな音を立てた。
「なんだこれ……」
”ぴちゃん”
”ぴちゃん”
腕をだらりと下げたまま天井を見上げ、大きく開けた口で天井からしたたり落ちてくる水滴を受け止めている祖母。そしてその水音は耳の中で鳴り響いているかのような大きさ。とても現実とは思えないその状況に、僕はただただ立ち尽くして傍観するしか出来なかった。
ーーー
祖母の口から水があふれ出るか出ないか。そのくらいまで水滴が溜まったとき、ふいに水音が止まり、その瞬間僕はふと我に返った。
「おばあちゃん?!」
祖母に一歩近寄り、その顔を覗き込む。
祖母の口の中は、あと一滴でも水滴が落ちてきたら溢れてしまうくらいの水で満たされていて、カッと見開いた目は天井の一点、水滴が落ちてきていた場所を何の感情も持たないままで見つめていた。
「お……ばあちゃん……?」
僕はあとずさりながらなんとかそう口にする。カラカラに乾いた喉の奥を潤そうとしているかのように胃の方から何かがこみ上げてくるのを感じる。
祖母は僕にこんな光景を見せるためにここに呼んだのだろうか。
あとずさり続けた僕はいつの間にか部屋の端まで来ていたようで、壁に背中がぶつかった。そしてその時、僕は窓の外が眩しいことに気がついた。
雨が降っていない。
窓の外を覗き込んでみると外はいい天気だった。そして地面や周りを見回しても雨が降った痕跡すら見当たらない。だとするとさっき天井から落ちてきていた水は雨漏りじゃないのだろうか。
もう一度天井を見上げると、さっきまであったはずの天井の染みが跡形もなく消えている。おかしい。さっきまで確かにあったはずなのに。
その時、僕はふと思い出した。この居間の上、いや、この居間だけでなく、一階の全ての部屋の上には部屋があることに。そして水回りは北側の一角に固められているので、配管が部屋の天井を這っているとは考えられないことも。
外は晴れ。
室内の水漏れは考えられない。
消えてしまった天井の染み。
僕は幻を見ていたのだろうか。そろそろと視線を部屋の真ん中にいる祖母へと戻すと、どうだろう。さっきまで生気の感じられない奇妙な置物のように水を受け止めていた祖母が突然、ゴクリと大きな音を立てながら、口の中いっぱいにため込まれていた水を飲みこんだ。
僕が声も出せず、ただただその光景を見つめていると祖母の黒目がギロリと僕の方を見た。そして顔を僕の方へと向けるとゆっくりとこう言った。
「さあ はじめましょう」
足どころか全身が震え、身動きが取れない僕に向かって祖母がゆっくりと近付いてくる。一歩。そしてまた一歩。僕の目の前まで来た祖母は両手でグッと僕の頬を包み込むと僕の顔を覗き込んだ。その目はさっき天井を見ていた時と同じようななんの感情も持っていないような目で、僕というより僕の向こう側を見ているような、そんな目だった。
「ちょっ……」
何とか祖母から逃れようと身をよじってみても、老人とは到底思えない力で顔をホールドされていて全く身動きが取れない。それどころか祖母の力はドンドン強くなっていったので僕の意思とは関係なく僕の口は大きく開いてしまっていた。
僕の呼吸は荒くなり、鼻水や涙、そして涎があふれ出てきた。一体祖母は何をする気なんだ。必死に見つからない答えを探していたそのとき、目の前で『ごぼっ』という音が聞こえたと同時に僕の口の中に大量の生暖かいものが流れ込んできた。
なんだこれは。一体なにが。涙で滲んでいてよくは見えないけれど、祖母の口の端にキラリと光るものが見えた。まさか今僕の口の中に流れ込んできたものは、さっき天井から祖母の口の中に向かって落ちていたあの水滴の集合体なのだろうか。急いで吐き出さなくてはという思いとは裏腹に、僕の口の中に入ってきた物体は喉の方へとまるで意思を持っている物体化のように進んでいく。えずいてもえずいても出口に向かう気配はまったくしない。
僕の口の中が空になったタイミングでふっと祖母の手の力が抜けた。
これでもかというくらい垂れ流される涙や鼻水とは裏腹に、僕の口の中からは不思議なくらい何も出てこない。その場で四つん這いになり、何とか僕の中に入って行ったものを吐き出そうと苦悶している僕の頭上から祖母の声が聞こえてきた。
「あなたに贈ったガラスのコップ。あれがあればどこにいても大丈夫だから。ちゃんと定期的にありがたくいただくのよ」
「大丈夫って……なにが……」
祖母を見上げて僕がそう口にした瞬間、ドサリという音と共に祖母の身体が目の前に倒れ込んできた。こちらを向いた顔はどす黒い色をしていて口からは泡を吹いて白目をむいていた。
「おばあちゃん?!」
一体何が起こっているんだ。まさか祖母は死んでしまったのだろうか。呆然と倒れている祖母を見つめている僕の頭の中で声がした。
「さぁ 仲良くしようじゃないか 弟のようには なりたくないだろ? それに あのばあさんには もうあきたんだ」
<了>