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善悪を「語る」ことと「実践する」こと

善悪の判断を留保することを拒む者たちの中には、そもそもその判断を留保することなどできないのだと語る者がいる。すなわち、善悪の判断を留保して善悪というものについての事実を語っているつもりでも、それもまた一つの善悪の判断にならざるを得ない、というわけだ。

しかしこの指摘に対しては、善悪についての事実を語っているつもりでもそれもまた一つの善悪の判断にならざるを得ない、という善悪についての事実を語れてしまっているではないか、と応答できる。一方でさらにこれに対して、いや私は善悪についての事実など語っておらず、ただ善悪の判断をしているだけなのだ、と答えられるだろうか。

ここにおいて顕在化しているのは、善悪の捉え方の対立というよりも、そもそも何かを「語る」ということの捉え方の対立だろう。つまり、言葉というものが誰かに向けて語られた時点で、それはある種の倫理性を帯びざるを得ないということが問題。あるいは逆に、単に倫理的判断をしているだけのつもりであっても、それはなにかある種の事実を語ってしまっている、とも言えるかもしれない。

この点で、メタ倫理学における認知主義と表出主義との対立というのは、言語についての対立を道徳についての対立に取り違えてしまっている?私が佐藤岳志の『メタ倫理学入門』を読んでいて感じた違和感はこれかもしれない。

道徳言語(というものがあるとしてそれ)が何をしているのかという問いと、そもそも道徳とはいかなる性質を持っているのかという問いとは異なる問いに感じる。たとえ表出主義者であっても、道徳言語をそれ以外の言語形態から区別できるためには、それに先立って「道徳」という概念を理解できていなければならない。

よくわからなくなってきたけど、ともあれデリダの本はこの問いを考える手がかりをくれるような気がするので、いずれ読みたいなと思っている。


(第二段落について、これは善悪についての事実なのではなく、善悪について語ることについての事実なのだ、という応答も考えられる。しかしそのように、「善悪についての事実」と「善悪について語ることについての事実」とが峻別可能なのだとしたら、善悪についての事実を述べることが、必然的に(傍点)、善悪について判断することにもなる、というふうには言えないだろう。

すなわち、そう言えるのだとしたら、それは善悪について語ることが偶然に持つ性質なのではなく、おおよそ善悪というものが必然に持つ性質であるはずだ。だからやっぱりこの応答者は善悪についての事実を語ってしまっているのである。

と言うと今度は、応答者はこう言うだろう。いや違う、それは善悪が必然的に持つ性質なのではなく、善悪について語ることが必然的に持つ性質なのだと。つまり、善悪について語ろうとするものは同時に善悪の判断までもしてしまう、という性質を、「善悪について語ること」が持つのだ。

しかし、善悪それ自体については語らずに、善悪について語ることについての事実だけを語ることなんてできるだろうか。できる、というのが表出主義者の見解なのだろう。むしろかれらからすれば、善悪について語ることが必然的に持たなければならない性質から、善悪そのものの性質すらも導けるのだとまで言うかもしれない。ヘアがやってることって多分それなんじゃないかな。

まとめると、マッキーまで含めて認知主義者は、善悪そのものについての性質から、善悪の判断をするとはどういうことなのかを導こうとしている。反対に、表出主義者は、善悪について判断をするとはどういうことなのか、ということから善悪についての性質を導こうとしている。

結果的に理解が進んだので良かったけれど、その上で最初のポストを見ると、ちょっと微妙かも。