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キェルケゴール『死に至る病』:読書メモ


私は、自分自身と関係しようとする時、すなわち自己を「自己」として捉えようとする時、その「自己」が決して私を捉えきっていないことに気づく。この私自身と、それを対象化した「自己」との差。そこには無限の他者が隠れている。すなわち自己は、それが私でありながら、同時に実は他者によって措定されているのである。ここに絶望の根がある。

この絶望は死に至る病である。なぜなら、そこで私自身は完全に消去されるからである。つまり、私が私を「自分」として捉えようとした時、本当の私は消え去るのである。いや、それが消え去ったということすらも消え去る。つまり「死を死ななければならない」(『死に至る病』岩波文庫、p. 33)。

デリダ的に言えば、私とは全くの唯一者、決して反復し得ないものでありながら、そうやって「私」と対象化してしまった瞬間、それは無限に反復し得るもの、私以外も「私」であると言えるようなものになってしまうのである。「私の死は〈私〉という語を発するのに構造的に不可欠である」(デリダ『声と現象』ちくま学芸文庫、p. 216)。

しかし確かにその私はある。あるのに語れない。常に他者にも当てはまる仕方でしか私を語れない。私はただ私であって、みんなが言うところの「自己」ではない、と言ったところで、その「私」がどこまでも「自己」として捉えられてしまい、私自身はどこまでも取り残される。言わば、私は常に何者かであらざるを得ないのだ。単に私であるということは許されない。しかし何らかの私であらねばならない。この絶望。

ここでこの絶望に打ちひしがれないために取り得る道は2つある。まずはその反復可能性すらも自身の上に基礎づけようとすることである。言わば自己を措定する他者を自らの内に囲い込むのである。これはつまり「私」の無限の反復可能性を有限化してしまうことであり、実は上記で私が行ったことでもある。すなわち、「私」という言葉によっては決して捉えきれないものがある、というその構造を持って逆説的に真の私自身を提示するのである。しかし、これもやはり絶望的な試みであり、失敗する運命にある。なぜなら、そうやって提示されたはずの言葉では決して捉えきれない「私」ですらも、やはり他の人も「私」であり得るような「私」でしかないからである。

そこで私が取る第2の道は、その絶望に居直ることである。それはつまり言葉をどこまでも跳ね除けることである。言葉の中の無意味なシミとして「私」という言葉を、いや文字を、文字を用いるのである。しかし、それは当然何の解決にもならない。

さて、以上のような八方塞がりの絶望的状況に対してキルケゴールが説く救いの道とは、「自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける」(『死に至る病』岩波文庫、p. 25)ことである。即ち無限を、他者を受け入れるのである。それは信仰という形しか取り得ない。つまり、絶望という自らの罪の赦しを乞うのである。ここにきて私は、無限なるものに抗うことなく、ただそれに祈る他ない。


「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

マタイの福音書:第26章第39節