私、他者、第三者:デリダ『アデュー』に寄せて
〈私〉がある。〈私〉は世界にただ独り存在するものである。だからこれを独在者と呼ぼう。ある時、〈私〉は自分と姿かたちの同じものと出会う。そいつには、「顔」がある。〈私〉はその「顔」がこちらに音を発していることに気づき、それを真似して相手に音を発し返してみる。次第にその音は秩序を帯びていき、いつしか、〈私〉という独在者は「私」という唯一者となり、「他者」という別の唯一者との倫理的関係に入る。
一方で「私」はある時気づく。この音の秩序は、言葉というものであり、それは「私」や「他者」と同じ唯一者たる「第三者」たちが作ったものだと。そしてこの世界には無数の唯一者たちからなる共同体があり、そこでは言葉を媒介に互いが互いに倫理的関係にあるのだと。
ここで問いが生まれる。果たして無数の唯一者たちの中から一体誰を優先すれば良いのだろうか。森でりんごを採った時、今までは「他者」にあげればよかった。もはや〈私〉が食べることは許されない。なぜなら〈私〉は「私」となり、「他者」と倫理的関係に入ったのだから。「他者」は「私」と同じように飢え、「私」と同じように苦しむ。だから、採ってきたりんごは「他者」にあげよう。「私」が食べてしまうのなら最初から「他者」の呼びかけに答える必要はなかったのだから。
しかし、今はもう違う。この世界には「他者」と同じように飢え、「他者」と同じように苦しむ「第三者」が無数にいる。では、「私」はこのりんごを一体誰にあげればいいのか。ここでは唯一者という”比較不可能なものの比較”が求められている。これが正義の問いである。正義の問いに答えはない。答えがないからこそ、それは無限に語り得る。そうしてこの正義の問いを巡って哲学者たちは諸学説を積み上げてきたのである。
しかし、本当に向き合うべきは正義の問いだろうか。むしろ向き合うべきは、その問いの手前にあったはずの倫理の問いではないだろうか。すなわち、独在者たる〈私〉は如何にして唯一者たる「他者」と出会い、その「他者」と倫理的関係に入るのか、という問いである。いや、これはもはや問いとは呼べない。なぜなら、我々が正義の問いを語りうる地平に立ってしまっている以上、その問いはすでに解決してしまっているからである。”この”言語というものがすでに解決策なのである。言語というものを使ってしまっている時点で、私たちはすでに第三者との正義の関係に入り込んでしまっている。その前にあったはずの「他者」との原始的出会いは覆い隠されてしまう。しかしこの出会いから全てが始まったはずなのだ。これこそ倫理を可能づける超越論的な条件なのだ。そしてその超越論性の果てには〈私〉という超越的存在がある。それはどこまでも語り得ない。