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功利主義の二つの顔

功利主義について哲学的に考察する上で重要なのは、それをいかなる前提から導き出すかなのだが、入門書にはそこの話があまり載っていない。

私の理解だと、功利主義はその導き方に応じて目的論的功利主義と契約論的功利主義とに分かれる。前者は、幸福こそが善であるという実在論的土台から始めて、故に幸福を最大化することこそ正しいと導く。一方で後者はより契約主義的な土台から始める。すなわち功利主義こそが、スキャンロンの言うところの、誰も理にかなった仕方では拒絶できない道徳理論であるのだと示そうとする。

そして功利主義の一見した頑強さは、これら二つの土台を批判に応じて使い分けるところにある。すなわちその帰結が非直観的であると言われれば、実在論的土台に遡ってむしろ功利主義は幸福こそ善であるという日常的直観に根ざしていると応答し、他方で人格を単なる幸福の器とみなしていると言われれば、今度は契約主義的土台に遡ってむしろ功利主義は各人の人格を平等に扱っていると応答する。

しかし功利主義のこの二面性は時として相反する結論を導き出すというのがパーフィットが人口倫理学という新たな分野を創設してまで訴えたことである。すなわち、幸福を最大化することこそが第一義的な善であるという実在論的土台を前提とするのであれば、子どもを増やすことが全体の善を増大させる時、我々は際限なく子どもを産み続けるべきだということになる。これがパーフィットのいう「厭わしい結論」である。一方で、諸人格の間の平等を第一義的な善とする契約主義的土台に依拠すればこのような結論は出てこない。なぜなら、ここでいう「人格」とはすでに存在する人格であり、まだ生まれてきていない人格は含まないからだ。しかし、今度はこの前提から「非同一性問題」という難問が生じてくる。すなわち、まだ生まれてきていない人格の幸福を考慮しなくてよいのであれば、将来世代をどんなに過酷な状況の下に産み落としても一向に構わないということになってしまう。もちろん、将来世代の幸福をも善として換算する実在論的土台からはこのような結論は導かれない。

ここにおいて、目的論的功利主義と契約論的功利主義とは互いに反目し、功利主義者はもはや両者の調和を無邪気に信ずることはできない。二つの間の選択が突きつけられるのである。


*この議論の下敷きにあるのはパーフィットによる目的論的平等主義と義務論的平等主義との区別である。義務論的だとわかりづらいので契約論的と勝手に変えた。詳しくは下記論文集所収のパーフィット「平等か優先か」を参照してほしい。