【短編】シャワーの記憶
右にひねると瞬く間に温かい水が流れ出し、一瞬の間に身体を包みこんだ。
耳元で鳴るザーーッという音ともにあの日の出来事がフラッシュバックする。
赤ちゃんができたの。
震えた声と膝の上でギュッと握られた小さな手、まだ5時だったのにも関わらず確かあの日は記録的な豪雨で外はすでに真っ暗になっていた。
何日前のことだろうか、まるで映画のワンシーンかのように思い出せる。
あの時も俺は菜奈の顔を見ていなかった。
アイツ、どんな顔してたんだろう。
菜奈と出会ったのは大学2年の夏だった。
大学進学を機に地方からこの大都会にやってた俺も2年に上がる頃にはここでの生活にすっかり慣れてしまい、授業にもほとんど顔を出さないでいた。それでもサークルだけはたまに顔を出していたのだが、ある日「人数合わせで来てくれよ」と頼まれ渋々ついていった4対4の合コン、そこに菜奈がいた。
生まれて初めての一目惚れだった。
肩までの綺麗なストレートヘアーに明るくも丁寧な言葉遣い、お世辞抜きで菜奈はダントツに可愛かった。あの場の男性陣は皆菜奈狙いだったはずだ。
一方の僕は抜群にダサく、一目惚れはしたものの菜奈を口説くつもりはサラサラになかった。
でも菜奈は僕を選んでくれた。
あとから聞いた話によると「たっくんが一番普通だったから」ということらしい。
その普通さに飽きてしまったのだろうか。
あの日、菜奈は僕に別れを告げた。
赤ちゃんってどういうこと?誰との子なの?
聞きたいことは山ほどあったが、結局何一つとして聞かなかった。
いや、正確には聞けなかった。
付き合ってからの3年間、僕はそうやって菜奈に接してきたから。
たっくんのそういう優しさが辛かったの。
部屋を出ていく時に言われた言葉。
俺の自信の無さがいつの間にか彼女を苦しませていたのか。
蛇口を左に捻る。シンとなり、ポタポタという水滴の音だけが響く。
今となっては考える必要もないことだ。
浴室から出てベットに置かれたクタクタのTシャツを着る。ドライヤーのコンセントを差し、雑な手つきで髪を乾かす。
ものの15分で身支度を終えた。
どこで買ったか忘れた薄汚れたトートバックを掛け、外に出る。
菜奈と別れてからはバイトを転々としていた。
以前は就職活動もしていたが志望していた企業全てに落ち、43社目のお祈りメールを目にした時にすベてのやる気を失った。
就職できなくても死にやしない。
まさか数日後に最愛の恋人までも失うとはその時は気づいてなかったわけだ。
最寄駅から南に5駅、3番出口を出てすぐのところに俺の働くカフェはある。
ワンフロアしかないこぢんまりした店だが、常連客も多く地元民から愛されている場所だ。
裏口から入り、タイムカードを押す。
手を洗い慣れた手つきでエプロンをつけ、挨拶をしながらホールへと出る。
今日は割と客が多いみたいだ。
ここ数日は異国で流行った疫病のせいか客足が遠のいていたが、みんなそろそろ慣れてきたのだろうか。
どんなニュースも、消費され時間が経つとみんな忘れてしまう。残酷なものだ。
そういえば菜奈は昔、あの国で働きたいなんて言ってたっけ。
そんなことを考えながらぼーっとフロアを見渡す。
中央の壁側の席で手を挙げるショートボブの女性が目に入った。
注文表を手にしテーブルへと向かう。
もし今菜奈に会えたら俺はどんな言葉をかけるだろう。
カランカラン
入り口のドアが開く音がし、目を向ける。
一瞬間を置いてパンッと天井に向かって乾いた音が鳴った。
客の叫び声が聞こえる。
なぁ菜奈、
俺らもう、会えないかもしれないな。
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