スピノザ的な神の変節。
グローバリズムは地球を主語にして物事を語る回路を持つが、思想は人間を介さねばならないため無理やり政治をやらせると、超国家的な資源が右派、金融が左派となりうる構造が、不可視な政治的構造として伏在している。
しかし、地球はまた、歴史や国家の舞台として存在し、人間はそこに生きているため、メジャーな哲学思想が地球を主語に語る主権争いの道具となっていることが分かるだろう。
資源国、それもイスラム教国家の核武装は、スピノザ的な神の論理がもはやヨーロッパ内での内部処理の域を越えて暴走してしまっていることを示している。
人知がヨーロッパの望まぬ形で限界を迎え、意志の限界を含む宿命論の、それを叙述させた認識の方が宿命化してしまったのだ。
古代ローマでは神託の拡張であり、中世の閉鎖空間における洗礼は、神との契約において、家畜と人間を区別するための人知を保証したが、
ピーター・シンガーの動物倫理は、家畜と人間を痛覚で同列化することで、スピノザ的な神即自然の論理が内部処理的な古典力学との共立から外に出ようとし、
神を語らぬまま、上げ底式に地球を主語にする覇権主義的な道具となっており、哲学全体からすれば、それは哲学が語れなくなってしまった存在の代替物だ。
実在を存在の代替とし、実在の取り扱いを持って存在論の持つ認識論を補完し、存在論の代替とするのである。
そこで創出される倫理とは、神学における聖霊や温室効果ガス同様に、目には見えず、坊主丸儲けのまま反論した時点で非人化される論理で舗装されており、
これは、脱工業化したヨーロッパが再び説教強盗となり、史学的には、世界が彼ら無しで近代国家を運営できるようになったことの裏返しでもある。
ならば、後発国はその脱け殻として大航海時代以後のイギリス、ヨーロッパ、アメリカの近世と近代が果たして正しかったのかをぶつける必要が生じる。
なぜならば、植民地にしろ、燃費の悪い自国の工業化にしろ、アドバンテージとしての蓄財は後発国に対する同時代的な反省では成立しない非対称な時間が生んだ富であるからで、
スピノザ的な神の変節は、後発国の核武装が金融と資源の関係において平等な競りにする可能性に対処するものだからだ。
そこが交渉でできないのは、生産に対して、金融が負債になったからだ。