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シェリング自然哲学と、その展開の批判。

道教における無為自然と比較するとよく分かるが、シェリングの自然哲学における自然は観察するために固定されている。
カントによると、感性と悟性によって成される認識は、シェリングでは理性による自然の観察へと転化し、それは自然の中の自己を通して倫理に至る、観念論の目的論化だと言える。
それ以後の展開は思弁的実在論に回収されるが、シェリングの哲学が持つ目的論的な性格は、
それ以後の展開では、文中で語られる実在間に生じた、文中には不在の関係そのものを目的化することで継続している。
また、カントにおける認識や、シェリングにおける観察には、倫理は達成されるための目標としての方向性を持つが、
マルクス・ガブリエルなどにおける思弁は、手法としての思弁自体が叙述者を始めから倫理の語り部とすることが可能なのである。
ゆえに、先に述べた目的化された関係は、それ自体、語られる対象である実在の自然を支配を忘却することで、傍観の立場となる。

たとえば、中世における小氷期に、ヨーロッパはどうだっただろうか。
つまるところ、地球的な気候からしたら思弁どころではなくなり、シェリングの思想やそこからの展開は、
いずれ流転する万物の下位に位置しているに過ぎない。
それは、神の聖性、認識、観察から思弁へと下降した現代であっても変わらず、関係の目的は頭から胃袋に移行し、関係であるがゆえに、いずれ力の話になるだけだろう。

※余談だが、工学分野で自然観察で倫理的解決に至ったのは欧州が設けた燃費基準のハードルをクリアした国産自動車であり、
あまり知られていないが、農業分野でも、小麦の品種に、従来よりも穂の量が多く倒れない、農林10号という世界を変えた国産品種がある。
なぜこのような話をするのかというと、積立NISAでアメリカ株が日本人に押しつけられている傍らで、
海外の投資家はこぞって日本株を買っているからだ(笑)
技術立国に付随した愛国心には関心がないが、グローバリズムの現実において、非上場の合資会社が自治区の役割を果たせるかどうかには、一考の余地があるのではないだろうか。










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