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批評再生の無意味さ。
テーマ批評は作品を介して表出した現代社会を捉え、抽出した現代社会は表出した現代社会だと言って終わるのだが、その語られた現代社会から先を語ることはない。
テーマ性を持つ作品とテーマ批評の関係は、実際には現代社会の未解決性を共有しているに過ぎず、そのため、批評は構造的なトートロジーとなっている。
それゆえに、作品内の人物が現代社会の問題を解決した場合、その作品は批評を越えることとなるが、実際には難しい。なぜならば、作品そのものは現実を反映することによって生みだされるからだ。
問題は、批評の「テーマ批評ではなさ」の根拠に相当するものが批評自らの限界であることが自覚されていないのだ。
これまで作者の死でやりくりできていた批評が表現の現実を語れくなったのは、表現そのものが時間の蓄積により死んだことによる。大抵の表現はジェネリック化し、ほとんど基礎の確認で済むのだ。
現代の批評文は、その場合においても自己完結的で、社会的リアリティを再生産する機能しか持たない。
では、非テーマ批評としての文体批評や技術批評などでは、作品が持つなんらかのテーマ性が、批評家本人の批評と関係ない段落に託されており、そこに一種の願いや祈りが見て取れるとき、論理の飛躍を論理の飛躍と切って捨てずに、むしろ筆者にとって必要なものであると捉えて肯定すると、文章全体で、現代の批評文が、価値論から趣味判断にスライドしていることが見えてくるだろう。
これは、作品が啓蒙の道具ではなくなった代わりに、作品と批評の非対称性だけはそのままに、批評家と現実との距離と、作者と現実との距離とが等価になったためであり、批評からすれば、価値論における批評が持つ先駆性が、様式の飽和によって先駆性ではなくなったからである。
そのため、批評は美学を介して自己表現となり、その美学は目的化された自己の価値判断の普遍化に奉仕することとなる。
大衆文化の批評のみならず、現代を語る民俗学、社会学同様、書き手の行う構造解析そのものをトートロジー的な帰結に見えなくする工夫として、表現対象を美学的機能として語ることが必要とされるとき、読み手は批評そのものの商品価値を問う必要があるのだ。
批評文を読み、人それぞれという感想を持つのは御法度とされがちであり、感想と共に毛嫌いされがちなのだが、実際には、そのような現代の批評文自体が人それぞれを味方につけ、批評家の固有性を一様に表出させている、まさしく価値観の崩壊である人それぞれを担保する営みそのものとなっているのである。
現代の批評は好き嫌いに見えない好き嫌いを述べるお座敷芸に過ぎないので、発見や好き嫌いを述べることよりも批評としての価値がないのだ。
一意の価値を目指す道具で書き手の個別性を再発見させ、それが批評家自身の個有性の補強を目指せば、一意の価値を不可能にした、パブリックの喪失が再確認される循環構造だけがそこにある。批評で一般解説を越えたいのであれば、現実を語るか、自身が史学的な存在になるべく、作品がもつ作品に固有の美学の裏の顔を批判する必要があるが、このような批評を終わらせまた復活させるものは、価値論的な批評を可能にする、まだ得体のしれない現実だけだ。
現代の批評家はこの得体のしれない現実を作るために、分かりきった現実を無視するが、批評家自らの多様性が、語り尽くせない多様性の創出に関与せざるを得なくなり、批評が批評として価値の一元化に至ることは不可能なのである。