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#ネタバレ 映画「ローレライ」

( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

ローレライ
2005年作品
船を降りた者の責務
2005/3/13 11:32 by 未登録ユーザ さくらんぼ(修正あり)

パウラはその超能力ゆえローレライの心臓部になることを義務付けられました。しかしその豊かな感受性は敵を倒した心の痛みも感じてしまいます。まるで徴兵されて殺人を強要される青年の苦しみを代弁しているかのようです。

しかし原爆投下を阻止する為にはパウラを外すわけにはいきません。だから潜水艦の艦長たちはパウラを守る為に、敵をなるべく殺さない作戦をとりました。その結果、パウラを守る事が日本を守る事になるだけでなく、敵味方を含めて、すべての人の命を守る事につながって行きました。

人間魚雷の非道を唱えていた艦長は、作戦の途中で船から降りたい人間を募り島へ降ろしました。兵士の中には体育会系の男や、ライカに目が釘付けになる文科系の男も居て、その中から何人もが船を後にしました。

このとき船を降りた者も、船に残った者も、万感の想いが心の奥に沈殿して行った事でしょう。残った者たちは、生に後ろ髪を引かれながらも絶対に作戦を成功させなければならず、また降りた者たちも、戦友の分まで残りの人生を真剣に生きなければならなくなったのです。これは戦争で生き残った人たち、つまり今映画を観ている人たちに向けたメッセージでもあるのかもしれません。

そしてラストに船長は、パウラたちの小型艇も切り離します。この時の船長の詫びは、若者たちが本当に聞きたい言葉だった様な気がします。本当は一番徴兵してはいけないタイプの人間もやっと開放されました。

昔の戦争映画を知る者たちにとっては、なんとも甘いシナリオだと思うかもしれません。でも、ここで描こうとした事は「命を慈しむ歌」だと思いました。それを未曾有の無差別大量殺戮である原爆投下やホロコーストと対峙させて描いていたように思いました。ドイツの潜水艦を使ってもドイツと同じ戦いはしない事も。

そう思うと「モーツアルトの子守唄」が生きてきます。神からの啓示を受けたといわれている天才モーツアルトの作った子守唄は、さながら神が命を慈しむ唄だったのではないでしょうか。

追記 2022.2.2( 濃厚接触 )

先日BSで放送されていましたので、久しぶりに観てみました。そうしたら封切りに映画館で観た時よりも良い作品だと感じたのです。ずっと楽しめました。

映画館で観た時は(失礼ながら)CGにリアリティがないと感じました。それが最初から期待に水を浴びせたのです。すでに洋画の中には現実と見分けがつかないほどリアルなCGを実現しているものもありましたが、私の記憶が正しければ、映画「ローレライ」は、なにかの都合で最新技術を使えなかったとか。当時そんな記事をどこかで読みました。

そして、物語の内容をつめこみすぎた感もあってか、シンプルな潜水艦バトルを期待していた私には、少し散漫に感じたのです。しかし、TV画面で観ればCGのレベルはあまり気になりませんし、物語もだんだんと理解が深まって行くように思いました。

さらにソーシャルディスタンスとマスク、そして換気命な昨今では、潜水艦という密閉空間の中で、薄汚い野郎たちが(失礼)密集して大声を出すという濃厚接触ぶりに、懐かしいような、臭くて旨い食べ物をたらふく食ったような、禁断の満足感を味わったのです。

追記Ⅱ 2022.2.2( 人間としての誇り )

>昔の戦争映画を知る者たちにとっては、なんとも甘いシナリオだと思うかもしれません。でも、ここで描こうとした事は「命を慈しむ歌」だと思いました。それを未曾有の無差別大量殺戮である原爆投下やホロコーストと対峙させて描いていたように思いました。ドイツの潜水艦を使ってもドイツと同じ戦いはしない事も。(本文より)

そして、今回は物語に「人間としての誇り」を強く感じました。原爆やホロコーストが起こっていた時代、さらにドイツの潜水艦を使って、戦争という修羅場の中にいても、(似て非なる道を選び)最後まで人間としての誇り失わなかった者たちのお話でもあったのです。

追記Ⅲ 2022.2.2( 映画「眼下の敵」 )
( 映画「眼下の敵」のネタバレにも触れています。 )

艦長・絹見真一(役所広司さん)は妻を失っています。仕事のために妻を守ってやれなかったと悔やんでいるようで、形見の時計を今でも大切にしていました。

ふと、映画「眼下の敵」を連想しました。あちらの艦長・マレル(ロバート・ミッチャムさん)も、タンカーの船長をしていた時代に潜水艦から魚雷攻撃を受け、タンカーは真っ二つ、妻はあちら側、マレルはこちら側になり、助けてやれなかったと悔やんでいました。そのときの潜水艦に対する怨念が、マレルを対潜水艦の専門家に育て、さらに駆逐艦に乗ることで仇討ちをしようと企んでいたようです。

でも、映画のラストには彼は仇討ちをやめ、敵艦長と戦友になるのです。マレルは鬼に堕ちず、人間としての誇りを守りました。

そう言えば、映画「ローレライ」のラストも、日米の二人が和解するシーンでしたね。映画「ローレライ」が映画「眼下の敵」へのオマージュかはともかく、高潔な魂の継承はあるように感じました。

追記Ⅳ 2022.2.3( 連想する作品たち )

「人間としての誇りを守るために戦った者たちの物語」としては、映画「ティアーズ・オブ・ザ・サン」、映画「16ブロック」そして、まだ読んでいませんが(映画化期待)、自衛隊を描いた小説「土漠の花」もおそらくそうなのでしょう。

追記Ⅴ 2022.2.3( 映画「護られなかった者たちへ」 )

ここで少し(ねたばれ)映画「護られなかった者たちへ」の話をします。

ケースワーカーの円山幹子(清原果耶さん)の行為と、映画「眼下の敵」の艦長・マレル(ロバート・ミッチャムさん)の行為を比較すると、円山幹子の行為がいかに残念だったのかが、より鮮明になってくると思います。彼女がとても気の毒な境遇に育ったことは認めますが。そのポイントに留まったままで成長が認められないのです。ずっと鬼のままで。

( 以下、映画「護られなかった者たちへ」追記Ⅵ ( 自分が上司になって、この仕事に命を捧げる ) 2021/10/6 10:21 by さくらんぼ より )

『 映画「ガメラ3・邪神〈イリス覚醒〉」は、中学生ぐらいの少女が、自衛隊を逆恨みする話でした。もちろん少女は自衛隊員ではありませんし、社会人でもありません。ですから、ある意味世間知らずとして、逆恨みもやむを得ないところがあります。

しかし、映画「護られなかった者たちへ」では、社会福祉事務所に勤務する一人前の職員である女性が、上司を逆恨みして殺めるというお話でした。

映画でも描かれていましたが、ケースワーカーとして生活保護費の支給停止の話までするぐらい仕事の経験を積んでいます。つまり、社会福祉事務所の仕事の苦労を知っていて、その上で、つらい役目を演じている上司に手をかけるのは、少し疑問に感じるのです。

本来なら、そのつもりで公務員試験を受け、社会福祉事務所に入っても、自らが仕事をして、その苦労を内側から経験することで、そして、自分も大人になることで、より理解を深め、犯罪を起こすよりも、この仕事に命を捧げることに一生をかけようとするのが、リアルなシナリオのような気もしました。 』

以前どこかで、「原作では役所はもっと悪く描かれていたが、映画化するにあたり取材をしたら、役所には役所の事情があることが分かったので、少し変えてある」(表現は正確ではありません)みたいな製作者側の話を読みました。

一般論として、問題を抱えた住民は、無意識に役所に「一部の奉仕者」を求めるような気がしますが、役所は「全体の奉仕者」ですから、視点が違えば問題の答えが違い、それがトラブルにつながるのは、ある意味、役所の宿命だと思います。それを製作者側は理解されたのでしょう。

しかし、「少し変えた」(リアルに近づけた)せいで、全体の奉仕者に対し、同じく全体の奉仕者であるケースワーカーの円山幹子が犯行に及ぶ必然性が弱くなってしまったのかもと、ふと、そんな想像をしたのです。

追記Ⅵ 2022.12.10 ( お借りした画像は )

キーワード「クジラ」でご縁がありました。なぜ「クジラ」かと言えば潜水艦からのイメージです。しかし、この雲の画像を見てびっくり。よく見つけられましたね。すごいです。



( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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