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#ネタバレ 映画「ローマの休日」

ローマの休日
1953年作品
真実の口・王女は一日で大人に。恋愛は、悲恋は、人を大人にする。
2003/6/20 15:45 by 未登録ユーザ さくらんぼ

( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。 )

映画「太陽がいっぱい」についても触れています。

一見すると「貧富の差による溝を描いた作品」であるアランドロンの映画「太陽がいっぱい」には、実はそのような溝は存在しない事を説明するボートのシーンがある。

主人公の青年二人が仲良くボート遊びをしてから岸に下りるときに、彼らは二人一緒に降りる。もし二人に前述したような溝が有るならば、「まず身分の下の者が先に下りて船を留め、後から身分の高い者が下りる」ことが映画の表現上必要だからと、どこかで読んだ記憶が有る。

もしもこのレベルで映画「ローマの休日」を味わおうと思っても今の私には出来ない。テレビで観たのだが、いつ観たのかも忘れてしまったほど古い記憶だからである。もっとも今改めて観直しても書ける自信はないが。

だから断片的に覚えている記憶を手繰り寄せて、少しだけ書いてみたい。

ヒーローは新聞記者である。真実を報道するのが仕事だ。その彼はヒロインが王女だとすぐ気づいた。しかしヒロインに向かってはそれは言えない。言えば逃げてしまうからだ。

一方ヒロインはご存知の通り王女様。彼女はお忍びで街へ出た。だから自分の身分を当然に誰にも言えない。

そして、秘密を持った二人の楽しいエピソードが語られていく・・・

でも楽しいときは短いものである。やがて旅は終わり、二人は新聞記者と王女として、つまりお互いの本当の身分に戻って、万感の思いの対面となるのである。

しかし、やはり二人はここでも本当の自分の気持ちを素直に語り合えない。当然である。言えば周りが大騒ぎになる。しかし何らかのシグナルをお互いにだけは送りたい。この場を逃したら二度と言葉を交わすチャンスなど無いかも知れぬ。ここのところのぎりぎりの描写はとても素晴らしい。

こう見て来ると、この映画は「真実を語る事の難しさ」について描いた作品ではなかったかと思うのだ。

そして「ローマ」、古代遺跡たちもまた、沈黙して私達を迎えるのである。

追記 ( 恋愛は究極の付帯ドラマ )
2015/10/23 7:12 by さくらんぼ

私の部屋にはランプが3つ置いてあります。

Aランプは、街中のリサイクルショップで見つけました。たそがれ時のお店で、明かりが灯っていたのを一目惚れして買ったのです。何度も行きつ戻りつし、勇気を出して入店して。開店したばかりの小さなお店でしたが、店員さんは若い女性でとても誠実そうな人でした。ランプシェードにはエンジェルの絵が書いてあります。温かい電球色の光。

Bランプは、廃品回収業者が場末にある倉庫の隅で始めたリサイクルショップで、みつけたものです。こちらも入店には勇気がいりました。でも、店員さんはみなホッとするような柔和な方で安心。実は、これは白いガラス製の花瓶です。その中に、試行錯誤の上、ホームセンターで買った4ワットの青い白熱ランプを入れました。夜間、点灯すると、水中をのぞいているように幻想的。

Cランプは、ネットで偶然に見つけたものです。美しいエメラルドグリーンの光と形に、一目惚れして即ポチりました。でも…これには記憶喪失になったように、付帯ドラマがないのですね。それどころか、「ネットの中の商品が、目の前にあるのはなぜ」てきな感じ。

今までネットでいろんなものを買いましたが、Cの様な空虚を感じたのは初めてです。おそらく、夜間、音楽をかけ、物思いに浸りながら、購入したもの自体を観賞していることなんて、他には、そうはありませんから、気づかなかったのでしょう。

今までは、物を買うためには、それなりの儀式がありました。まず服を着替え、電車や自動車に乗り、時間をかけて店まで行きます。天候が雨かもしれないし、暑かったり、木枯しが吹いているかもしれません。途中ですれ違った犬に吠えられるかもしれない。そうやって、やっと、お店までたどり着いて、ちょっと緊張してドアを開け、店員さんに挨拶をして、見せてもらいます。そうして、やっと購入する。

帰りには、ちょっとくたびれて、喫茶店によったり、ランチを食べたり、そのランチが思いのほか美味しく、また、そのレストランへ行きたいと思ったり…そうやって、すくなくとも半日がかりの大事業を終えて帰宅するのです。ですから購入したものは、その付帯ドラマとともに一生の想い出として記憶される。

これからネットショッピングの時代になると、それらが欠落していくのです。

これは、私たちの気持ちに、どのような影響を与えてくるのでしょうか。

最近、若者たちの間では「恋愛など、めんどうくさい」と言われている様です。思えば「恋愛は究極の付帯ドラマ」なのですから、メールやライン、ネットショッピングなど、になれた人には、もはや「生臭い恋愛」など、論外な事なのかもしれませんね。

追記Ⅱ ( ラストの会見で胸に刻むこと )
2015/11/12 6:58 by さくらんぼ

久しぶりにTVで再観しました。

昨今の量産されるTVトレンディドラマと比べるのもなんですが、やはり、映画「ローマの休日」は良いですね。特に、ラストの宮殿での再会場面は素晴らしい。何度見ても。

そして、そこでは、こんな思いも新たにしました。

王女が深夜、宮殿に戻ると、大臣や御付きの者たちが、「今まで、どこへ行ってたんですか、王女としての自覚を忘れたんですか!」みたいな話で説教しようとします(セリフは正確ではありませんが)。

そのとき王女は毅然として、「私に説教は不要です。王女の自覚が無かったら、ここへは戻ってきません」と言い返すのです。

王女は一日で大人になりました。

恋愛は、悲恋は、人を大人にするのです。

そう言えば、悲恋をお葬式に例えた歌もありましたね。ウィッシュというフォークデュオの美しい名曲「御案内」です。

何かのレビューでも書きましたが、お葬式の席で、悲しむ親族に、せっかくの機会だからといって、なんらかの説教をする人たちがいます。でも、それは「水に落ちた犬を棒でたたくがごとき、人情の分らぬ醜い行為」です。お葬式ではお悔やみだけにとどめ、どうしても言いたいことがあれば、別の機会に話すべきです。

さらに映画ではこんなセリフも出てきましたね。

みなさまよくご存じの場面。こんな有名な映画の、こんな有名なエピソードなので、おそらく老若男女、知らぬ人はいないと言っても良いぐらいの話。

それは、王女と記者が、恋人同士の秘密を守ることを確認しあう場面です。

あれは王女と記者だけに当てはまることではありません。

私たちの恋愛も同じです。恋愛はすべて二人だけの秘密だと思ってください。二人の同意がなければ、決して他言してはなりません。世の中、成就する恋愛の方が少ないのではないでしょうか。それを思うと、不用意な発言で、以後、彼、彼女たちの、運命が変わってしまうことすらあるのです。あなたは、その責任を負えますか。

映画「ローマの休日」を観たすべての人たちに、思いだしてほしいシーンでした。

「 今日 お葬式をします
どうぞ 涙は流さないで
慰めの言葉もいりません
ただ名もない花を一輪

今日 お葬式をします
私の愛が死んだのです
同情も今はいりません
ただ見守っていてください 」

( ウイッシュの「御案内」より抜粋 )

追記Ⅲ ( 男性の頭で女体のギターを突く意味 )
2015/11/13 6:50 by さくらんぼ

淀川さんかもしれません。どなたかプロの映画評論家の方が言われていましたが、映画「ローマの休日」では、王女と記者は結ばれているのだそうです。

もちろん露骨な性描写はありませんでしたが、映画の後半、船上パーティーを楽しんでいたら、王室関係者に見つかってしまい、大騒ぎになった挙句、池に飛び込んで逃げる場面がありました。

あの後、記者の自宅で夜を明かすのですが、あの一夜があやしいらしいのです。たしか、あの自宅のシーンはHの記号らしい。

今は私もそれを信じます。

そのせいかも分かりませんが。

今回、映画を再観してみて、おもしろい場面を発見しました。

あのボートのシーンで、王女は楽団のギターをとって、追っ手の男性の頭をギターの胴体で叩き、胴体に穴をあけるのです。

そのとき、写真を撮り損ねたカメラマンが、「もう一回」と声をかけ、王女は言われた通り、もう一回叩くのです。もちろん王女は撮影されていることを知りません。

後には、その写真を記者とカメラマンが笑いながら見るシーンもありました。

そしてラストには、別れの記者会見の席で、絵葉書のふりをして王女にあの写真を渡し、その場でチラリと写真を見た王女が驚くシーンもありました。
つまり、少なくとも四回はあのエピソードが出てくるのです。

面白いですが、クドイぐらいでしょ。

あのクドさはなぜかと思うとき、あっ、そうか、あれが「Hをしたぞ、気づけよ」とのダメ押し記号だったのか、と気がついたのでした。

ギターの胴体は、女体をモチーフに作られていると言うのは有名な話です。

追記Ⅳ ( ふと「千と千尋の神隠し」を思う )
2022/1/3 10:05 by さくらんぼ

最近はTVで映画「ローマの休日」が何回も放送されています。画質も様々。私も吹き替え版と英語版の両方を録画しました。あらためて観てみましたが、やはり良い作品です。特にラストの記者会見の王女の演技(微表情)には素晴らしいものがありました。さすが名優です。

そして、すでに書いたことを忘れて、あらためて感じてしまったのはこの部分です。

『 王女が深夜、宮殿に戻ると、大臣や御付きの者たちが、「今まで、どこへ行ってたんですか、王女としての自覚を忘れたんですか!」みたいな話で説教しようとします(セリフは正確ではありませんが)。

そのとき王女は毅然として、「私に説教は不要です。王女の自覚が無かったら、ここへは戻ってきません」と言い返すのです。

王女は一日で大人になりました。

恋愛は、悲恋は、人を大人にするのです。 』(追記Ⅱより)

映画の最初には、白いネグリジェを着てベッドでミルクを飲み、「電気は消さないで」と甘える王女が、最後には、黒い服を着て毅然と床に立ち、「ミルクは要りません」「もう用はありません」と、一人になりたがるのです。

子どもから大人になった記号がちりばめられていました。

王女は外出中、新聞記者との会話で「学校から抜け出してきた」と言いました。

つまり、過保護の世界から抜け出して社会経験をし、失恋の苦しみと、楽しみに背を向け責任を全うしようとする決断から、大人に変身したのです。そう言えば、最近は「無理しなくても良いよ」という言葉は聞いても、「過保護」という言葉は聞かなくなったような気がします(もちろん王室には王室の厳しさがあるであろうことは承知しています)。

そして、ラストの記者会見は、時に狂気さえ帯びる恋愛感情すら、理性でコントロールしなければならない事もあるという、あるいは仕事の辛さという、「大人の世界」の集大成だったのかもしれません。

追記Ⅴ ( 恋愛感情に負けたのは )
2022/1/3 10:27 by さくらんぼ

新聞記者は最後の方で、事実上「かけおち」の提案をしていたように見えました。

しかし、王女はイエスとは言わなかったのです。

あの昔でも、王女との駆け落ちが成功するとは思えませんが、大人だと思っていた新聞記者が恋愛感情に負けてしまった記号なのでしょう。

そしてイエスと言わなかった王女の方がクールだったのですから。この勝負、王女の勝ちだったようです。


( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 
更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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